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第33話 居場所は何処に

 「正直、呼ばれないかと思った」  電話口で率直な感想を吐露すると、『だろうな。俺も』という苦笑交じりの声がした。背後ではざわめきがしている。野球部員たちの話し声だろう。たくさんの人が一斉にすれ違う交差点の音声みたいだ。  ドラフト会議の様子を、江森は学校に残って見ていた。一つのチームとして戦ってきた仲間たちや、世話になった監督や顧問の手前、責任感と緊張で押しつぶされそうだったと言う。自分の名前が呼ばれた瞬間、何が起こったのか分からなくてしばらくフリーズしてた、と彼は笑った。  「俺も、咄嗟には動けなかった。その時、叔母さんが丁度トイレに行ってたんだけど、すぐに知らせてあげられなかった。あ、叔母さんは大喜びしてたよ。これで正人に色々と買ってもらえるわね、って」  『おばちゃん、俺に何を買わせる気なんだ……。つか、喜ぶとこがそこかよ』  恋人の呆れ顔が目に浮かぶようで、伊織は笑い声を上げた。  風が髪を撫ぜる。ひんやりと、氷のように冷たかった。地下鉄を降りてからそこまで長い距離は歩いていないはずなのに、耳の先が痛みを訴え始めた。寒さに敏感な己の身体には時折、嫌気がさす。  『伊織。今、外にいるの?』  「そうだけど、よく分かったな」  『風の音が聞こえたような気がした』  「ああ……、今日は風が強いから」  おかげで耳が痛くなってきた。苦笑いを浮かべながら白状する。  『外にいるってことは、家に帰ってる途中とか?』  「うん。もう少しで着く」  『なんだよ、俺が帰るまで待っててくれないのかよ。てっきり、おばちゃんの部屋で飯でも食いながら待ってると思ったのに』  明らかにがっかりとした声だった。  会議の結果次第では、江森は地元の新聞記者から取材を受け、その後で仲間たちと喜びを分かち合いがてら学校で晩飯を食べる予定であった。つつがなくインタビューを終え、今は仲間と快挙を祝っている途中らしい。  人気(ひとけ)のない住宅街を一人きりで歩いている自分とは、正反対の時間を彼は過ごしている。  自分も同じ空間へ行きたい、とは思わなかった。  祝ってやりたい気持ちは誰よりも強く持っていた。だがそれとは別に、胸の中にもやのようなものが立ち込めているのもまた確かだった。羨望、ひがみ、嫉妬。そのどれでもない感情が心を支配している。  この気持ちは何だろう。  芽生えた疑問も、今は見ないふりをすることにした。大好きな人の夢が叶うのだ。目一杯、喜んでやらなくては。  「だって帰り、遅くなるんだろ。明日は金曜日で学校もバイトもあるんだから、長居してられないよ。正人も、喜ぶのはいいけどほどほどにしとけよ。将来メジャーリーグに行くつもりなら、今の内から身体を大事にしておかないと」  『それは伊織も同じだろ。アメリカにはいずれ伊織だって行くんだから……あっ、だったらなおさら早く帰りたくなるか』  「とにかく、俺は帰って飯を食べて先に寝るから」  『ええー、つまんねー。帰ったら、伊織と思いきりいちゃつこうと思ってたのに。今からでも遅くない、おばちゃんの部屋に戻って、』  「もう家の前まで来たから無理。話なら明日、昼休みにじっくり聞いてやるよ」  不愛想に告げ、伊織は「じゃあ、明日な」と言いかけた。  『伊織』  通話が終了しそうな気配を察知したのか、江森の声が勢いよく耳に飛び込んできた。彼の声が大きいのは今に始まったことではないが、妙にトーンが低かったせいか思わず足が止まる。  『あのさ、……』  「……? 何?」  問いかけてもなお奇妙な沈黙は続いた。  『……、いや……何でもない』  続け様に謝られ、意味も分からぬまま伊織は曖昧にうなずいた。何事にもまっすぐな江森らしくない、黙り込むという行動。何を指し示すものかなんて、見当もつかなかった。  『あ、伊織はさ、どうなの。もう何処かの会社から内定もらってるのか?』  何かを隠すように、江森が話題を変えた。  「……特には。こないだ一社だけ試験受けたけど、落とされた。俺の他に何人も同じところに応募してたみたいだから、人数の関係で落ちたんだと思う」  アルバイトで貯めた金で安いスーツを買い、簡単な試験と面接を受けた。まるで値踏みでもするかのようにじろじろと見られ、不快だった。ああいう大人が自分の上司になるのかと思うと憂うつで、不合格通知が来た時には思わずほっとしたくらいだ。  そろそろ二社目の応募が始まる頃だが、伊織は気乗りしなかった。  学校に届く求人票の中に、あまり興味の持てるようなものが見当たらなかったせいもある。今のアルバイトを続けた方がずっと気が楽なような気がした。  『諦めないで次もちゃんと挑戦しろよ? 伊織を雇ってくれるとこ、きっと何処かにあるはずだから。俺が保証する!』  「正人に保証されてもなぁ。意味ないどころか逆に落ちそう」  『ひどっ。恋人が保証してやるって言ってんだから、もうちょっと自信持ってくれよ。伊織が落ち着かないと、俺も安心して東京行けないだろ』  じゃあ行かないでくれよ。  喉まで出かかった言葉を、伊織は唇を噛むことで飲み込んだ。好きな人の手が夢の端っこをつかんだばかりなのにこんな、すがりつくような言葉を吐くわけにはいかない。  スマホを顔から遠ざけ、一度だけ深呼吸をする。伊織、と遠くで名を呼ばれた。  「……分かってるよ。お前がここを離れるまでには、何とかする。まあ最悪、だめでも今のバイト先で続けて雇ってもらえるとは思うし」  『なんか心配だな。本当に、大丈夫か?』  「うん。俺は大丈夫だよ」  なるべく本心に聞こえるように取り繕う。上手くいったようで、スマホから聞こえた『そっか』という声は安堵の色に満ちていた。  『じゃ、明日の昼休み、楽しみにしてるな。おやすみ伊織』  「……うん、おやすみ」  ツーツー、という話中音がした直後に、電話をきる。スマホをしまい、伊織は歩き出した。家にはまだ着かない。  さっきから、自分の気持ちがよく分からなかった。  江森につまらない嘘をついてしまった理由も、もやもやとした感情の正体も、分からないままだ。暖かい部屋の中でテレビの中継を見て叔母と会話をしていた時までは、少なくとも正常だった。おかしくなったのは、電話に出てからだ。  嬉しいはずだった。  江森がプロの球団から三位指名を受けた瞬間も。彼から着信があり、数時間ぶりに声を聞いた時も。どちらも伊織が待ちわびていたものだ。  それなのに。  「東京かぁ……」  厚い雲のかかった夜空を見上げ、都会を思う。  あまりにも遠い。が、飛行機に乗ってしまえば着くまで三時間もいらない。知っていたが、遠いという感想は変わらなかった。  騒々しくて、華やかで、けれど何処か冷ややかで。  その街で、江森はどんなふうに生きていくのだろう。彼の輝きが増していく様を、自分はどのくらいの近さで見ていられるのだろう。今まで通り、この場所から、遠く離れた街にいる恋人の背中を想い続けることになるのだろうか。  一人、彼の部屋に残り、小さなテレビ画面を見つめていた時のように。  「俺は、何処にいればいいんだろう」  空から白いものが降ってくるのを待ちわびる子供のように、伊織はしばしその場に立ち尽くしていた。

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