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第32話 江森の夢
カタカタと、木枯らしが窓を揺らしている。今夜は風が強い。ここを出て駅へ向かうまでの短い道のりでも、上着を羽織らなければ耐えられないだろう。伊織は外の寒さを思い、そっと息を吐き出した。
十月の夜は冷えていた。雪が降り始める気温ではなくとも、暖房器具に手をかざしたくなるくらいには気温が低い。
「佐倉くん、今日は正人の部屋に泊まっていくの?」
テレビ画面から伊織の方へ視線を移し、江森の叔母がたずねてきた。
「いえ。今日は、この番組を見終えたら帰ります」
「あら、じゃあ晩ご飯は食べていかないのね。遊びに来てくれるって言うから、はりきって佐倉くんの好きなものを作ったのだけれど」
彼女に自分の好物のことなど、いつ話しただろうか。
何とも返事ができずにいると、叔母は笑いながら「正人に聞いたのよ」と言った。偽りや屈託など感じさせない性格は、江森とよく似ている。
「あの子、うちで晩ご飯を食べる時はいつも佐倉くんの話をしてくるのよ。美郷が毎回それに食いつくものだから面白がって、どんなに小さなことでも話してるわ。その時の正人ったら本当に楽しそうで、佐倉くんとの仲のよさがこっちまでよく伝わってくるくらい」
「なっ。あいつ、そんなことを勝手に……」
食卓で、嬉々として伊織の話題を出す江森の様子を想像しながら、思わず舌打ちが飛び出そうになった。
と、先ほどから静かな会場内の様子を映していた中継に変化が起こった。
いよいよ会議が始まる。
今夜、江森がプロの球団に入団できるかどうかが決まる。彼にとって最大であり、最後の賭け。
甲子園から帰った江森に、スカウトマンだと名乗る人物から渡された名刺を見せてもらった。そこに書かれていた名前をネット検索にかけてみると、本物のスカウトマンだと判明し二人で顔を見合わせた。喜びや驚きの気持ちが混ざり合って、終いには二人して笑い転げた。
「実はその人、去年から俺に目をつけてたらしいんだよ」
ひとしきり笑った後、床に寝転がった江森が教えてくれた。遠方からわざわざ足を運んで、練習の様子を見に来たこともあったのだという。そんな人に見られてたなんて全然、気づかなかったけど。そう言って江森はまた笑った。
新人選手選択会議の有力候補としてネットで江森の名前が挙がっているのを伊織は何度か目撃した。学校でもうるさいくらいに、江森の名を耳にした。その都度、恋人を誇りに感じた。
今、すぐ目の前で江森の夢が実現しようとしている。
どうかその指先が届くようにと、伊織は心の中で祈った。
「自分の甥っ子が選ばれるかもしれないだなんて、ドキドキするわね」
テーブルに頬杖をついて言う叔母は、楽しそうだ。部活で帰りが遅くなる娘の分まで目に焼きつけておかないと。中継が始まる直前、彼女は笑って言った。甥っ子がプロの球団から指名されると信じて疑わない様子だった。
「俺も、友人が野球選手になれるかもしれないと思うと、ドキドキします」
「選手になってからが大変なんだけどね。まあ、あの子なら粘り強いから心配はいらないと思うけど。さて、年俸で何を買ってもらおうかしらね」
もう江森が入団してからの話になっている。気が早い叔母に苦笑をこぼしつつ、伊織はテレビの音声に耳を傾けた。
一位指名の選手の名が呼ばれ始めた。
いくつかの内、最も指名が重複した選手の名はネットの記事で見たことのあるものだった。投手のポジションながら打撃のセンスもあると書かれていたのをおぼえている。そのせいか、投手もバッターボックスに立つ機会の多いリーグからの指名が多かった。
一位指名として呼び上げられた中に、江森の名前はなかった。
肩の力を抜き、しばしの間テレビに注目するのをやめて叔母と他愛無い話をする。いつ次の指名が始まるのかと、気が気ではなかった。何せこの番組を見るのは初めてで、タイミングがよく分からないのだ。
二位指名でも、江森の名前は挙がらなかった。今頃、本人は部の仲間や顧問たちとテレビの前でそわそわしているのだろうと、その様を思い描く。
「私、ちょっと不安になってきちゃった……。お腹痛くなりそう」
抽選の様子を見ながら、江森の叔母が弱音を吐いた。
「大丈夫です。きっと、もうすぐ呼ばれますよ」
己の声のまっすぐさに、伊織は首をひねりたくなった。この自信は、何処から湧き出てくるものなのだろう。大丈夫だなんて言葉を簡単に口にしてよかったのだろうか。裏腹な感情に心が揺れる。いつもは朗らかな叔母の浮かない顔を見て、こちらまで影響を受けてしまったようだ。
消極的になってはいけない。誰よりも江森のことを信じてやまない自分が弱気になってどうするのだ。
「だめだわ。私ちょっと、お手洗いに行ってくる。佐倉くんは中継の様子を見守ってて」
「分かりました」
足早にトイレの中に消えていく後ろ姿を見送り、視線をテレビ画面に戻す。
そろそろ三位指名に移る。中継時間も残り少ない。
焦燥と緊張で目がまわりそうだ。瞳を閉ざし、深呼吸をする。大事な試合で緊張を感じた時にはよくそうするのだと、前に江森が話してくれた。
今、お前はどんな気持ち? 怖い? それとも期待でいっぱい?
すぐにでもスマホを手に取って電話したくなる気持ちを必死にこらえた。
「第三巡選択希望選手――」
何度か同じ前振りを聞いた。四度目くらいだっただろうか。
江森正人。
フルネームを字で見て、耳でも聞いた。
間違えようがない。江森が指名されたのだ。
「この球団、正人に目をつけてたスカウトの人の……」
東京に本拠地を構える球団だった。そこだけが江森を指名した。
水の流れる音が聞こえる。叔母のことを忘れて、呆然と座り込んでしまっていた。弾かれたように立ち上がり、伊織は彼女にこの吉報を大きな声で伝えた。
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