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第3話

 憔悴しつつも、きちんとネクタイを締めて、荷物のパッキングを済ませているのは、決して俺に対する当てつけとかではない。単純に奴の実務能力の高さだ。  だが、臆病なところのある奴は、結局、二週間前に命じられたニューヨークへの転勤を、昨夜まで黙っていた。  言えなかったのだと言っていた。  俺が焦れながら、いつ切り出されるか待っている二週間目の夜になって、やっと奴は懐に辞表を用意して、明日、本社で兄に逢って渡すつもりだと言い出した。同じ二週間前に奴の兄によって転勤を知らされていた俺は、ただそれを待っていれば良かった。ギリギリまで黙っていた奴も奴だが、尻馬に乗るようにしてブチ切れたふりで別れを切り出す、俺も俺だった。  辞表を用意してまで俺との別れを惜しむ奴を説得するのは、正直、とんでもなく骨の折れる難事業だった。  けれど、これで良かったのだと思う。あんなエリートの塊みたいな奴が、俺に惚れるなんて、どこか間違ってるんじゃないかとずっと思っていた。別れた方が、きっと奴にとっても良かったんだ。俺が人生にいたら、これから先、いらぬ試練を背負い込むことになるかもしれない。そうした想いが、どこかにあったことは事実だ。  だから、俺は全力で説得した。  いないはずの新しくできた別の男の存在まで匂わせて、別れ話とニューヨーク行きを勧めた。  奴の兄に言われたからじゃない。  栄転だと聞いたからだ。三年、アメリカで修行して、帰ってきたら副社長だ。大したものじゃないか。それを棒に振らせることだけは、絶対にしたくなかった。  奴の兄からは、こう言いつかっていた。  一、奴をニューヨーク行きの飛行機に乗せること。  二、俺の弟は、これからも中高一貫の全寮制寄宿学校へ通えること。  三、言いつかった件について一言でも漏らせば、上記の条件の幾つかが白紙になる可能性。  だが、もしも奴の兄に脅されでもしなかったら、このままズルズルと関係を続けて、本当にどうしようもなくなるまで、別れられなくなっていただろう。  だからこれでいいんだ。  奴を説得できれば、俺はいいんだ。

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