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第5話
玄関先まで見送ることに決めて、奴の少し沈んだ背中を見る。今頃になって、どれほどこの男を愛しているかを思い知るなんて、誰が想像しただろう。
この広い背中に、均等に付いた筋肉。何度爪を立てたかわからない脊柱や肩甲骨。足を絡めてねだった腰。
キャリーケースに最小限の荷物だけを詰めさせて、こんな心理状態で送り出すことが、正直つらくて仕方がない。
でも、やり遂げねば。奴の心はともかく、人生をめちゃくちゃにだけはしたくなかった。
玄関のドアが開く。
「じゃ、元気で」
空元気のまま上げた手を、どこへ仕舞ったらよいのか見当もつかない。奴はメタルフレームの眼鏡の奥で滲んだ視線を、まっすぐ俺に向けてくる。
「最後にひとつだけ、お願いをきいてくれないか」
「何?」
心底、面倒そうに尋ねることしか、俺にはできない。
「キスをしてくれ。唇に。別れの証に」
その言葉に顔を上げる。
奴は腹を括った顔をしていた。
「いいよ。そんなんいくらでも」
踏み出して、よろけないように踏ん張ると、奴が少し屈む。
その瞬間、この場所は、「いってきます」のキスをした、同じ場所だと気づいた。
頭の中がバグを起こしたようにグチャグチャになった。そのまま平衡感覚を掴むために爪先で立って、奴の襟を掴み、少し冷えた唇に唇を重ねる。
キスは一瞬だった。
警戒していたほど、追われもしなかったし、縋られもしなかった。
「きみは──」
終わった。
これでもう、奴が俺を気にかけることはないだろう。
唇は冷たかった。薄くて、少し酷薄そうに見えるそれが、俺は好きだ。俺の身体に痕跡を残して離れていくそれが。俺を一瞬で昂らせるそれが、どれほど愛しいかを思い知る。
だが、俺が一歩、よろけそうになりながら下がると、不意に奴が口を開いた。
「……どうして、泣きそうなんだ」
「っ」
刹那、決壊すまいと決めていたポーカーフェイスが崩れそうになる。
「別に。色々あったなって、……感傷?」
慌てて肩を竦めて見せた。無理矢理笑ったら嗚咽が漏れそうで、唇を噛む。
「きみは」
「何? もう行きなよ。飛行機、遅れたらまずいだろ」
「私を愛していたか?」
「……っ」
過去形で語られるそれに、俺はその場から離れることができなくなった。奴は俺をまっすぐ見つめると、潤んだ声で言った。
「最後の願いを聞いてくれるか」
「最後の願いはもう聞いただろ」
「本当の最後だ」
「っなに?」
俺の行動を予測するように、玄関先で俺に向かって踏み込んでくる奴は、脅威そのものだった。
だが、離れるまでの奴との数秒が上乗せされるなら、俺は内心、喜んで奴の言葉に乗るだろう。
「きみと寝たい」
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