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第14話

「くっそ」  と呟いて、ちふゆはペチペチとタッピングしていた手を止めた。  鏡と肉眼、両方で確認するが、叩きすぎてうっすら赤くなっている以外、そこに変化は見られない。  『効果を実感!!』と書かれたボトルをゴミ箱に投げ込んで、ちふゆは己の下腹部をさすった。  股間は相変わらずツルツルで、生えかけの毛すら一本もないのだった。 「なんも効果ねぇじゃん」  毒づいて、ちふゆは脱衣場の鏡面横の収納棚を開く。  向かって右が母親の使用物品を収める場所、左が父、そして下の引き出しがちふゆの場所だ。  ちふゆがいま開けたのは、父の棚である。  そこに、超高級育毛剤が入っていることをちふゆは知っていた。  最近減りが早いように思う、と父が母にこっそり相談しているのを昨夜聞いてしまったが、ちふゆは何食わぬ顔でやり過ごした。  父にしても、金色に脱色しているがさほどの傷みもない潤沢な毛髪を持つちふゆが、まさか股間や脇に毛を生やすために使用しているなどとは露ほども考えていないことだろう。    しかし、超高級を(うた)っているくせにまったく効果がないのはどういうことだ。  ちふゆなどこれ以外にもダブル使いならぬトリプル使いで色々な育毛剤を重ね付けしているというのに。  だが、考えてみれば父の元々あったであろう頭髪も増えてはいないのだから、元からなかった陰毛が生える道理もない。 「くっそ、詐欺かよ」  ちふゆは父の超高級育毛剤もゴミ箱に投げ捨てたくなる衝動をなんとか抑え込んで、とりあえずてのひらにとった液体を股間と脇に塗り付けると、ボトルを元の位置に戻して棚を閉じた。  このままでは(らち)が明かない。  こうなったらもう、植毛しか手は残されていなかった。  ちふゆはバタバタと自室へ駆け戻り、デイバッグに着替えやらを適当に詰めて、最後に一冊の本を押し込むと、 「青藍トコ行ってくるっ」  とリビングに居た母親へ告げて、家を飛び出した。    先日、青藍の浮気現場を目撃してから実に十日ぶりの逢瀬である。喧嘩をしたあの日を含めると間は更に空いている。  青藍の悪戯も、浮気も。  思い返す度にちふゆは腹立たしさを覚えたし、同時に悲しくもなった。  しかし、あの般若面のアザミという男衆に、自分にないものはなにかと問われたとき、ストンと腑に落ちたのだ。  そうか、青藍は本当は漆黒や紅鳶のように陰毛がボーボーの男が好きだったのか、と。  だから青藍は、ちふゆの股間にマジックで毛を描くなんて悪戯をしたのだろう。  あれは、ちふゆを青藍の好みに少しでも近づけようとした、苦肉の策だったのだ。  ひと言言ってくれれば……。  ひと言、ちふゆのココにも毛を生やしてくれ、と言ってくれれば植毛ぐらいいつでもしたのに……。    ちふゆは涙ぐみそうになるのをぐっとこらえて、淫花廓に迎えの車の手配を頼むべく電話を掛けながら、いつもピックアップしてもらう公園へと足を運んだのだった。 「ちー」  ゆうずい邸の前でさわやかな笑顔で出迎えてくれた男娼を無視して、ちふゆは肩を(いか)らせながらずんずんと歩を進めた。 「ちー? ちふゆ? おーい」  暢気に追ってくる青藍に苛立ちを募らせつつ、蜂巣(ハチス)へと向かう。  ちふゆの機嫌が最低最悪であることを察したのか、青藍は途中から無言で後をついてきた。    蜂巣に入るなりちふゆは、青藍の着物の胸倉を掴んで、両手でベッドの方へと彼をぶん投げた。  少し足をもつれさせはしたが、余裕の表情で青藍がバフっとマットレスに腰を下ろす。  自分より目線が低くなった男娼へ向けて、ちふゆはバッグから取り出した本を投げた。 「うわっ」  ハードカバーのそれに、さすがに焦った声を上げて青藍が腕を顔の前に出す。  バサっと派手な音を立てて広がった本が、男の手に当たってそのまま膝に落ちた。 「…………なにこれ」  青藍の眉が怪訝に寄せられた。  ちふゆは仁王立ちになり腕を組んで男を睥睨《へいげい》した。 「選べよ」 「は?」 「その中から選べ」 「ちー、ごめん。まったく意味がわからないんだけど。これ、なんなわけ?」     戸惑いも顕わに、青藍が開いた本をちふゆの方へと向けて首を傾げた。  ちふゆの持ってきたその本は、所謂(いわゆる)ヘアヌード写真集である。  写っているのは女性ではなく、筋骨隆々の男性モデルだ。    本来、淫花廓は私物の持ち込みは禁じられている。  だがちふゆはここに通い出した当初から、カードゲームや漫画雑誌などを持参していて、今回もさほどの審査を経ずにお目こぼしされたのだった。 「そこに写ってるヤツか?」  ちふゆは半眼で青藍に確認した。 「いやだから意味がわからないってば。ちー、目が据わってて怖いんだけど」 「そこに写ってるヤツがおまえの好みなのかって聞いてんだよっ」  ダンっ、と足を踏み鳴らして、ちふゆは声を荒げた。  青藍が不意に真顔になった。 「ちふゆ。ちょっとちゃんと話そう」  改まった口調で切り出され、ちふゆは腕組を解いて青藍へと一歩近づいた。  伸びてきた彼の腕がちふゆの腰を抱き寄せようとしてくる。それを身体を捻って(かわ)し、手の甲を叩き落とした。 「触んな」 「ちー。とりあえず説明してよ。おまえがなにに怒ってんのか、マジでわかんない」 「先にその中から好みを選べってば!」   ちふゆが怒鳴ると、埒が明かないとばかりに青藍が天井を仰いだ。  それから、仕方なしにパラパラと写真集をめくってゆく。  局部だけを隠した、ガチムチの男たちヌード写真を見る青藍の表情を、ちふゆは注意深く観察した。  さぞ興味深そうに見るだろうと思っていたのに、ちふゆの予想に反して青藍の眉間にはくっきりとしたしわが刻まれている。  あれ? とちふゆは内心で首を傾げた。  こころなしかげんなりしているように見えるのは……ちふゆの気のせいだろうか。  それともこれはポーズか。  気のないふりをして、ちふゆが帰ったらあの写真集をオカズに自慰でもするのだろうか。  ちふゆは犯人を追い詰める刑事の気持ちで青藍の一挙手一投足を見逃すまいとしていたが……青藍はおざなりにページをめくったあと、なんの未練もなくパタンと写真集を閉じてしまった。 「ちー、これ、なんの罰ゲーム?」 「はぁ?」 「っていうか、この中に俺の好みは居ないよ」 「じゃあどんなのがいいんだよ」 「ちー」 「は?」 「俺の好みは、ちふゆだって言ってんの!」    ポイ、と背後に本を投げ捨てて、青藍が語尾に僅かの苛立ちを滲ませたものだから。  ちふゆはブチ切れた。 「ふざけんなっ!」    地団駄を踏んだ足でついでに青藍の脛を蹴飛ばして、男の鼻先に指を突きつけた。 「お、オレ、知ってんだからなっ。おまえが毛ぇボーボーの奴が好みだって!」 「…………はぁっ!?」  青藍の声が裏返る。  それに構わずちふゆは人差し指を振り回した。 「ほら、さっさと答えろよ! どの毛が好みだったか言え! おまえが好きなだけオレも毛ぇ生やしてやるっ」 「ち、ちふゆ、ちょっと落ち着いて……」 「植毛してきてやるっつってんだよ! どのインモーがいいんだよっ。ほら答えろってば!」  ヒートアップしたちふゆは青藍の胸倉を掴んで揺さぶった。 「オレだってボーボーにすればおまえの好みになれんだろっ? そ、その代わりオレが毛ぇ生やしたら、オレに謝れよっ! そんで二度と浮気なんかすんなっ!」  感情が昂ったからか浮気されたときの動揺を思い出したからか、目が徐々に潤んできてしまう。  泣いてたまるかとちふゆは歯を食いしばった。  涙目のままで青藍を睨みつけると、彼は犬のような黒い目をポカンと丸くしていて……。  両手をホールドアップして、 「ちー、ほんとに一回待って」  と、ほとほと困り果てたように眉尻を下げた。  本気でなんのことかわからないと言わんばかりの表情に、ちふゆの気勢が削がれてしまう。  彼の困惑が伝わってきて、ちふゆも、ちょっとおかしいぞとようやく気付いた。  ちふゆが戸惑う仕草で胸倉を解放すると、青藍が深呼吸する()を挟み、ちふゆの両肘をゆるく握ってきた。 「ちょっと、一個ずつ整理しようか」  男の言葉に、思わずこくりと頷いてしまったちふゆであった。

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