56 / 201

【暖かな居場所 (8)】

紅葉は事務所から背もたれのゆったりとした椅子を運び、痛みに顔を歪めながら指示を出している杉さんの手を引いて座らせた。 「大丈夫…? タオルとかで温める?」 ゆっくりとしか動けず、辛そうな料理長を見て紅葉も心配そうだ。 「いーから…っ!あたた…っ! 何で今日に限って…!上島も休みで地元に帰ってるし…少人数だが、宴会も入ってるっていうのに…! おい、凪!そろそろ天婦羅やれよっ!」 「分かってるっ!!」 「…あ、僕も…何か…!」 途轍もなく忙しそうな凪や厨房のスタッフを見て紅葉は思わずそう口にした。 「素人は手を出すな…!」 料理長はそう言うが… 「この状況だよ?雑用くらいいいでしょ? 紅葉、着替えて手洗ったらバイトの子と一緒に皿持ってきてこっちに10ずつ並べて。」 「はいっ!」 バンドの時と同様、阿吽の呼吸で凪のサポートをする紅葉。 もちろん凪は紅葉が大事な手を火傷などの怪我をしないように配慮し、簡単な雑用を頼んだ。 料理長の杉さんのチェックを受けて次々と料理が運ばれていく… こうしてなんとか夕食の支度に目処がつき、義父の正は杉さんを夜間病院へ連れて行った。 「はぁー…っ! ありがと、紅葉…。」 「ううん…っ!」 「腹減ったでしょ? …じいさんが食事頼んでくれたって聞いた。」 「そうだ! おじいちゃん! ほったらかしにしちゃってた…!」 「さっき母さんが酒持ってたりしてたから大丈夫だと思うけど…。 着替えて先にじいさんの部屋行ってて? 食べてていーよ。 俺ももう少ししたら行くからさ。」 「分かった!」 30分程して凪が私服に着替えて池波の客室を訪れると、池波は熱燗を片手に刺身に手を伸ばし、紅葉もゆっくりと食べ始めている様子だった。 「遅くなって悪い…。」 「凪くんっ! お疲れ様ーっ! ごめんね、先にいただいてます。 すっごく美味しいねっ!」 紅葉は幸せそうに鍋物を摘まむとニコニコと笑い、隣に座った凪に何を飲むか聞いている。 「仕事が終わりなら飲むか?」 「お、いーね。 あ、まだ打ち合わせあるからちょっとね。」 池波に勧められて久々に日本酒を口にする凪。 「あー、うま…っ! 飯はどう?京風だけど、口に合った? 俺たちの分までありがとね。」 「旨い旨い。 なかなかの物だな。 部屋も風呂も飯も最高だよ。」 「そりゃあ良かった。」 多少酔いの回った池波は上機嫌で笑っていた。 3人は他愛のない話をしながら箸を進めて、食後の少し落ち着いた頃を見計らって池波は話を切り出した。 「さっきお袋さんにも聞いたんだが… ここを継がないのか?」 「え? あぁ…、うん。 今日みたいに人手が足りなきゃ手伝うけど… 俺は音楽で食っていくって決めてる。 不安定な仕事だけど、一番やりたいのが音楽だし、今のバンドでいけるとこまでやってみたい。身体が続く限りはやっていくよ。 紅葉と一緒にね。」 「そうか…。 ずっと都内に、あの家に住む気はあるのか?」 「……出来ればそうしたいって思ってるけど…。」 2人の関係性を知っている池波は紅葉にも同じことを聞いた。 「うん。 大学卒業してもあのお家で凪くんと平ちゃんと暮らしたいって思ってるよ。 …おじいちゃんは…迷惑?」 紅葉が不安そうに訊ねると池波は首を横に振った。 「最初…お前さんに家を貸すことになった時には今時のミュージシャンだからマナーもなっていないのだろうと心配したが、丁寧に家を使ってくれていて感心した。 特に紅葉が来てからは、孤独だった自分の生活が一気に華やかになって…まさかあんなに大きな犬を飼いたいと言い出した時にはさすがに驚いたが…(笑) それでもまるで孫たちが帰ってきたような感覚を思い出したよ。 ただの大家のじいさんをいろいろ気遣ってくれて、他人なのに家族のような付き合いが出来たこの縁に感謝しているんだ。」 「おじいちゃん…っ! ありがとうっ。 僕も、おじいちゃんがいろんな昔話を聞かせてくれるのすごく楽しいよ。 ドイツのおじいちゃんたちと離れて寂しかったから、ほんと…すごく嬉しかったんだ。」 「そうか…。 ワシも紅葉から向こうの暮らしを聞くと息子や孫たちの暮らしを想像してな…。 紅葉の兄がくれた写真も、この前凪が土産にくれたビデオも嬉しかったよ。」 凪は黙って話を聞きながらお猪口に口を付けた。

ともだちにシェアしよう!