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          第2章⑩            

 ぼんやりつぶやくようなボサノバの歌声が心地よく流れる店内に、唐突にグラスが割れる音が響き渡った。  よく割れるな、今夜は。 「大変、失礼いたしました」  僕は静かに言いながら、客の座るテーブルの間で慌ててガラス片を拾い集める新人バイトの女の子と並ぶ。 「すみません……」  彼女は、僕をすがるような目で見、つぶやいた。 「ガラス、気をつけて」 「はい……」  簡易の塵取りにグラスの破片など取らせると、彼女にモップを持ってくるように指示し、 「お客様――」  僕は近くの客らを振り返ると、「お怪我や飲み物がかかったりなどありませんでしたか?」 と声をかける。  別のバイトがお絞りをいくつかもってきた。それを、近くの客に一つずつ渡しながら、サービスで飲み物を出すと告げると、客たちは一様に驚きながらも「得しちゃったね……」とつぶやきあっている。    大学入学と同時に始めたバイトだった。大手商社のレストラン部門がやっている創作フレンチのカフェレストランで、白を基調とした天井高の内装はシンプルながらセンスがあった。店奥には和風な壺庭があり、四季折々の花や植物が粋に飾られ目を引いた。5月の今は、池に見立てた枯山水に、まるで自生したような菖蒲の花々が清楚に立っている。訪れた客のほとんどが携帯で写真を撮っていった。  ホール担当の僕らのお仕着せも、白いシャツに襟付きのベスト、黒の長いギャルソンエプロンと洒落ていて格好良かった。  とはいえ、仕事はウェイターに違いなく、店も高級な雰囲気ながら、従業員10名中、厨房のシェフとパティシエ、ソムリエ兼ホールディレクターの店長以外は、僕も含め、みんなパートかバイトだった。  結局、卒業までに就職先の決まらなかった僕は、ずるずるそんなバイトを続けていた。それでも、バイトリーダーとしてホール4人を統括し、また時には店長代理としてホールを任されることもたびたびあった。 「あの、リーダー……」  カウンターでサービスのドリンクをついでいると、さっきの新人の女の子がそばに来た。 「――ほんとに、何度もすみません」  僕は、うん、とうなづいてみせる。 「でも、ちゃんと切り替えて。失敗は引きずらない。いいね」  彼女は、はい、とやや強ばった顔でうなづいた。切り替えるにしても、よく割っている。うつむきかける彼女を励ますように、 「初日なんて、みんな、だいたいこんなもんだよ」  と笑ってみせた。  8時を回った。もう店もそろそろ落ち着いてくる頃だ。 「休憩入っていいよ」  と言うと、彼女は、恐縮して”はい”と小さく頭を下げ、店の奥に引っ込んだ。入れ替わるように店長が入ってきた。お疲れさまです、と声をかける。 「藍田ちゃん、悪かったね、新人ちゃんのサポートで残業させちゃって――」  少し腹でてきたかなぁ、とエプロンの結び目を軽く叩きながら言う店長の姿は、道着の帯を締める格闘家に少し見えなくもない。「――にしても、よく割るな、今日の子は」ため息交じりに彼が言った。 「新人は、慣れるまでよく割りますから」 「藍田ちゃんは、優秀だったから割らなかったんじゃない?」 「割りましたよ。一番高い大皿やって、店長メチャ、怒ったじゃないですか?」 「あれ?そうだった?」 「そうですよ。『おまえの給料の何倍だと思ってんだ!』って。俺、びびりまくりましたから」  店長は、アハハと笑っている。 「でも、この頃おまえ、調子良さそうだね」 「え?俺がですか?」  僕は鼻先で笑う。 「ありえないですよ。だいたい俺、完全に就職浪人ですよ」 「にしては、なんかきらっきらっしてるぞ」  僕は適当に受け流すと、サービスの飲み物を持って客のテーブルに向かった。 「3ヶ月記念日!乾杯!」  カップルの座るテーブルの脇を行くと、そんなことを男の方が嬉々として言うのが聞えた。内心吹き出しながら通り過ぎる。  3ヶ月。  俺と圭太も再会してそれくらいか。  今朝もバタバタとあいつのところを出た。 「じゃな」  玄関でコートに片手を通しながら、奥に声をかけると、あいつはボクサーショーツ一丁でのっそり出てきた。 「気をつけてな」 「うん」  と答えながらしゃがんで靴をはきかけていると、 「今夜、クラブで俺、回すけど、来る?」  と、あいつが背後で聞いてきた。  圭太の選曲は嫌いじゃない。それであいつの働くクラブにもたびたび出入りしていた。 「何時?」 「9時過ぎかな……」 「さあ――」  どうかな、と靴を履き終え立ち上がって振り返ると、壁に左手をついて寄りかかりながら、僕を覗き込むようにしていたあいつの顔がひどく近くにあった。まだ、少し眠そうな黒目勝ちな目。少し伸びたヒゲ、赤みがかった唇。そして、首筋に、胸に、きつく吸った跡、跡。  身体の奥が一瞬熱くなる。 「――間に合いそうなら行く」  僕は、コートにもう片方の腕を通しながら、あいつに背を向けた。 「そっか」 「ああ、連絡する」  振り返らず、ドアが閉まる間も惜しむように僕は部屋を出た。そして、2階建てのアパートの外階段を一気に駆け下り、その勢いのまま、同じように駅に向かうまばらな人々を右に左に速足で追い抜いていく。  ようやく信号に捕まって立ち止まった。ふう、と深呼吸するように顔を上げると、5月の澄んだ空が青く高く広がっている。上げた喉元をふわりと風が撫でていった。が、信号機が青になるが早いか、それを振り払うように、僕はまた駅に向かって前のめりで歩き出した。  図らずもそうして駅までがむしゃらに歩いてきたおかげで、ホームにちょうど入ってきた、一つ早目の電車に走り込めた。  ドアの際に立ち、息苦しさを沈めようと小さく深呼吸を繰り返す。 「何なんだ……」  家々やビルが大きくなったり小さくなったりと過ぎる車窓の風景につぶやく。  ――思わず、あいつにキスしそうになった  なんだ、それ。だいたい、俺たちは別に…… 「……リーダー」  はっとして振り返ると、さっきのバイトの女の子だ。僕は仕事モードの顔を慌てて作る。 「何?」 「店の裏にお客さんが……」 「客?俺に?」  彼女は恐る恐るうなづく。店長に声をかけ、その場を任せると僕は奥へ引っ込んだ。  控え室脇の狭い通路を行き、裏口を出る。ぽつんと灯る外灯の下、すこし所在無げに立つ白いコートが見えた。 「祥子!」  呼ばれて振り返った彼女の少し戸惑ったような笑顔は、一瞬よそよそしく僕には映った。

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