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第6話 【元禄】出逢い

 夏の宵風が汗に濡れた体を冷ます。  小野寺幸右衛門は井戸の前にしゃがんで、もろ肌脱ぎになった肩から水を浴びた。水の冷たさに、ひととき文月の暑さを忘れる。  赤穂藩江戸上屋敷の前庭では、半夏生(はんげしょう)の白い葉がひらひらと揺れていた。  今日は江戸随一との呼び声高い一刀流堀内道場の手合わせを見学に行った。藩の剣術指南役を務める堀部安兵衛の口ききだ。堀部はここの筆頭師範にひどく気に入られているという。  結局手合わせ見学のあと堀部と道場に残り、一通り一刀流の指南を受けて藩邸に帰宅したところだった。  十九歳を迎え少年らしさが抜けた肩から胸にかけて、赤い打撲痕がいくつもうきあがっている。一刀流では竹刀ではなく木刀を使う。この夏は馬術の稽古に精を出していたせいで、うなじの上とひじから下は、ハケで塗り分けたように陽に灼けていた。  遠雷に植え込みから小鳥がはばたいた。  やけに空が暗いのは夕立雲のせいだ。手ぬぐいで乱暴に体をふき、濃紺の単(ひとえ)を腰まで脱ぎおとしたまま、縁台においた差料をとって藩邸内の長屋にむかう。その鼻先に、すでに一しずくふりかかってきて幸右衛門は足を速めた。  見覚えのある下僕が一人、玄関で年配の女中と話している。女中はおとくと言って、幸右衛門の母がこの家に嫁ぐときに、国もとから藩邸の長屋に入った。幸右衛門にとって乳母のような存在だった。 「これは若様おかえりなさいませ」  一度三つ指をつくと、幸右衛門の差料を受け取る。下僕がすすぎの水を汲みにいこうとするのを見て、幸右衛門は「もう水は充分浴びた」と制した。 「吉左右(きっそう)にお寄りでございますか」 「いや」 「まあ、源吾様がおまちかねでしょうに」 「兄上は、萱野(かやの)がいればご機嫌だ」  吉左右というのは船宿の名だ。今夜は兄の大高源吾がそこで夕涼みの句会を主催している。夏の恒例行事で、大川下りの船で句会を開き、そのあとは船宿の二階で宴席と決まっている。今頃はたけなわといったところだろう。 「降ってきたぞ」  身内のような気安さでぶっきらぼうに言うと、おとくは困り顔で空を見上げた。 「源吾様から、お泊まりともなんとも報せがないので、お迎えをさしむけるか迷っておりました」  幸右衛門がことづけでももらってきていないか期待したのだ。 「そうか。ではおれが今から顔を出してこよう」  脱ぎかけた雪駄をもう一度履きなおした。 「まあ。では、お召し替えを」 「どうせ濡れる」  さっさと単の両袖に腕をとおして適当に襟元を合わせ、おとくに預けた大小を落とし差しにした。 「私が奥様に叱られます」 「母上はおれの気性をよくご存じだ」  笑いながら言うと、ご兄弟でこんなに違うもんでございますかね、とおとくはあきれたようにため息をついた。  幸右衛門の兄、大高源吾は江戸詰めの赤穂藩士の中で一番の風流人と称えられた人だ。俳句、和歌、茶道をたしなみ、とくに俳句は水間沾徳(みずませんとく)に師事し、宝井其角(たからいきかく)とも俳友として交際があった。弟の幸右衛門が武芸一筋にうちこんでいるのをことあるごとに、もっと書に親しむべきだと意見し、うるさく句作に誘ってきた。  ところが、幸右衛門と同い年の萱野三平という少年が江戸藩邸にやってきたとたん、その文才にすっかり惚れ込んでしまい、まるでそっちが実の弟でもあるかのように句会だ歌会だと言っては誘い出すようになった。  幸右衛門は最近、それが面白くない。  萱野三平を見初めたのは、彼が中小姓として藩に仕官した時だった。あの時は互いに十三歳。萱野はまだ喝食姿(元服前の前髪付きポニーテール)だった。摂津に住む家族と離れ、たったひとり江戸下向してきた様は、凛としながらもどこか群れをはなれた雁のような哀愁を持っていた。 「萱野の家は代々、旗本大島伊勢守様の用人をつとめる家柄。赤穂の田舎侍とは違う、良家の出じゃ」 「それではどうして三平ひとり、赤穂藩に仕官したのですか」 「伊勢守様から我が殿へのじきじきの御推挙と拝聴している。あの年であれだけの素養があればそれもうなずける」  うむうむとうなずいて夕餉の膳で上機嫌で語る兄の様子を、幸右衛門は半信半疑でながめていた。  この時代、家禄も身分も長男の総取りだった。幸右衛門や三平のような次男、三男には、継ぐべき役職も俸禄もない。幸右衛門は同じ赤穂藩士であり母方の叔父にあたる小野寺十内の養子となることが決まっていたが、萱野三平は奉公先を探してここへたどりついたのかもしれないと思った。  降りだした雨の中、吉左右に到着した。船宿の女中の案内で二階の座敷まで上がると、三味線の音と調子っぱずれの投節(なげぶし)が聞こえてきた。  酔っぱらいのだみ声が一段落するのを待って、膝をついて下座のからかみを開けた。兄の俳句仲間の神崎与五郎がすでに赤くなった顔で迎えてくれた。 「幸右衛門殿、降られましたなぁ」  少々ろれつがあやしい。 「兄はおりますか」 「幸右衛門殿のお膳をここへ。それと銚子をあと二本」  下がろうとした女中に言いつける。 「それがしはすぐにお暇いたします」 「大高殿はもう玉菊と向かいの小座敷へ」  そこで、いやらしく含み笑いをして 「ご兄弟とはいえ、いきなり襖を開けてはいけませんぞ」  と言い添える。  馴染みの芸妓の名前が出て兄の泊まりが確定した。もう長居は無用とばかりに、帰りの挨拶のつもりで一同をみわたした。  そこに。まったく酔態を見せぬ、楚々とした青年の姿があった。端然として正座を崩さず、透けるような白麻の蚊絣(かがすり)を着た姿は、幸右衛門の目にまるで狸の寄り合いに一匹混じってしまった白兎のように見えた。  いましもその横に、派手な蹴出しをちらちらと見せて芸妓の一人が座り、気が進まぬ様子の萱野に盃(さかずき)を持たせて注いだ。空いている左の手を取ると、さりげない仕草でするりと自分の腿にのせる。萱野の困惑した顔をみると、幸右衛門は何か言わずにはおられない気持ちになって、思わず座敷に踏みこんでいた。 「卒爾(そつじ)ながら、萱野三平殿とお見受けいたす」  萱野があっけにとられたように目の前に表れた幸右衛門を見上げた。言葉を交わすのは初めてだった。 「いかにも」 「それがし、大高源吾実弟、小野寺幸右衛門と申す。少々御意得たき義ござれば、そこまで御同伴願いたい」  目顔で二階から中庭に突き出た橋廊を差した。  あわてて裾をあわせて座りなおした芸妓の着物から、甘やかな香が匂い立った。それを嗅ぐと幸右衛門は着替えもせず、髪も剣術の稽古で振り乱したまま飛び出してきた自分が、ひどくむさ苦しいものに思えた。こんな男がいきなり座敷に転がりこんできて、彼の涼やかな目にどう映っているのだろう。 「しかし、勝手に句会を中座しては」 「貴殿もこのような酒宴を句会と称するのですか」  気恥ずかしさも手伝って、なじるような語気になった。幸右衛門は自分がなぜこんなにむきになっているのか、自分でもわからなかった。 「お受けいたそう」  萱野はやや当惑を含んだ顔で、しかし素直に盃を置いて立ち上がった。 にぎやかな座敷を横切り橋廊に出る。ひさしはついていたが、篠突く雨に廊下の半分はすでに濡れていた。  建物がかぎのように曲がった向かい側に目をやった。並んだ小座敷の明かりが驟雨(しゅうう)にかすむ。あの中のどれかに兄は玉菊とかいう芸妓としけこんでいるはずだ。  連れ立ってみると、萱野は幸右衛門よりわずかに背が低かった。外気は濡れた土の匂いと木の葉の青い香がした。 「……して、それがしに御意得たき義とは」 おとなしげな白皙が幸右衛門をふりかえる。 「あ」 言葉につまってしまった。ようするにあの酒臭い猥雑な宴席から、彼を連れだしたかっただけだ。  丸みのある頬に、残りわずかな十代のあどけなさが宿る。端麗な顔をかたむけて見上げられると、幸右衛門は余計に焦った。 「ああ、月だ。月が、見事だったので」  雨音は一層ひどくなる。  萱野は目を見開いた。 「小野寺殿には、月が、見えるのですか?」  美青年のきょとんとした顔に、幸右衛門のほうが笑い出したくなった。 「そうだ。そうなのだ。おれくらいになると、雨雲を透かして月が見える」  天を見上げてうそぶいた。さすがにあきれかえっているかと萱野を見ると、彼は、ふ、と噴きだした。  さっきまで感情を見せなかった萱野がくったくなく笑っていた。何かから解放されたように肩の力を抜き、楽しげに声をたてて笑う。 (ああ、彼はこんな無邪気な顔をして笑うのだ)  幸右衛門はいつの間にかその顔に見入っていた。 「失礼……ああ、本当に。こんな清々しい月はいつぶりか」  一緒にいたずらを成功させた悪童のような顔をして幸右衛門に微笑む顔は、幼友達のような親しさがあった。

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