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第7話 【元禄】生きるとは
次の春、萱野は幸右衛門と同じ馬廻り役(騎馬隊)に配置された。
それから萱野は、よく藩邸の厩(うまや)に顔を出した。自分の拝領となった鹿毛を可愛がるのはもちろん、馬丁たちが世話をするのを手伝ったり、他の馬たちの鼻先を愛しげになでてやったりしていた。冬には台所の野菜くずをもらいうけて、「毎日干し草ばかりでは、味気なかろう」と手ずから与えていたこともある。
彼の側では、馬たちがみな穏やかな顔をしていた。扇のようなぶあつい睫を伏せ、黒々と濡れた瞳を細めて萱野の肩先に鼻面を寄せ、鬢(びん)の匂いを嗅ぐ。幸右衛門は馬とはこんなにも優しい顔をする生き物なのだと、萱野のそばにいて初めて知った。
剣術の稽古から戻った夕暮れ、待ち構えていた兄の源吾に呼ばれた。
兄が書院として使う小座敷に上がり、向きあった。女中が茶をいれてくると、兄はすぐに用をいいつけて追いはらった。
「萱野が気鬱とは」
「昨日から長屋の自室に閉じこもってまったく出てこない。おそらく昨夜からろくにものも食べていない」
気遣わしげに腕を組んでいる。
「お身が様子を見に行ってやってくれ」
「おれは医者でありません。玄渓先生に来ていただいたほうが」
幸右衛門は困惑して藩医の名をあげた。兄は大仰なため息をつくと、縁側にむかった障子をぴしゃりと閉めた。
「ここからは他言無用だ。昨日萱野は非番で、馬丁たちに誘われて釆女ヶ原の大きな馬場にある厩舎まで行ったらしい。『お武家様、そんなに馬がお好きならこの春産まれたばかりの若駒をごらんになりやすか』とかなんとか声を掛けられて、まんまと連れ出されたらしい」
どうもひっかかる物言いだった。
「それで、あちらの厩舎で仔馬だけでなく、馬の種付けを見せられてきたようだ」
幸右衛門はあ然となった。
「では……萱野は馬の種付けを見て、気鬱になっているのですか」
兄の源吾は弱りきった顔でうなじを掻いた。
「……お前は知らぬかもしれぬが、馬の交尾は激しいぞ」
そこから、幸右衛門は兄から馬の種付けのあらましを説明された。
「雄馬は雌馬の発情の匂いを嗅いだときから、気狂いのように興奮して歯をむき出し、鼻息も荒く蹄で地をかいて暴れ出す。充血した逸物は、人間の腕から下ほどの太さも長さもあって、初めて目のあたりにする者はまずその迫力に驚く。それを牝馬の腹いっぱいに挿入すると、牝馬のほうは、この世の終わりのような嘶きをあげてがくがく四本の足を震わせる。雄も雌も必死の交わりだ。種馬は牝馬の後ろから前足を背中に乗せて交尾を始めるが、この後ろ足二足で立って、激しく抜き差しする動きが、人間の腰使いによく似ていてひどく生々しい。射精のあとも馬丁たちが手綱をひいて離すまで、まったく自分からは抜こうとしない。目をむき口から泡を飛ばしながら、恐ろしい形相で何度でも注ぎ続ける。最後に引き抜かれたときには、牝馬のそこから床をべっとり濡らすほど白いものがあふれ出るという。何も知らずにこの様子を見た処女は、そのすさまじさに腰が抜けてその場に座りこんだり、怖がって泣き出してしまうほどと聞く。場合によっては大の男でもあまりの生々しさにのぼせあがって、しばらくしゃがんでやりすごすそうだ」
兄の話に少々食傷気味になって幸右衛門は眉をひそめる。
「それが一体……」
「わからぬか。あの清廉で男女の情にうとそうな萱野に、わざとそんなものを見せつけて顔色を変えるかどうか、馬丁たちがひそかに面白がったに決まっている」
幸右衛門の頭にカっと血が上った。
萱野が、心の準備もないまま激しい馬の交尾を見せられ、動揺する様子を見物され、羞恥のあまり人の顔さえ見られなくなっているのかと思うとたまらない気持ちになった。
兄は萱野に同情するように眉をさげたまま一口茶をすすった。
「誰が見舞いに行っても顔を見せないそうだが、萱野はお身を待っているという気がしてならない」
「己を?」
「朋輩で一番仲がいいのがお身であろう」
そう言われればそんな気がした。馬を可愛がる萱野をずっとそばで見ていたのは幸右衛門だった。
「今から行ってまいります」
挨拶もそこそこに袴のすそをさばいて立ち上がった。
「頼んだぞ」
兄は思案げにつぶやいた。
「萱野殿、気鬱と聞きまかりこしました」
長屋の玄関で声を張ると、奥から聞き慣れた声が返った。
「大事ありませぬ。身供のことは捨て置きください」
言葉は毅然としているが、その声は震えを隠せない。思わず戸に手を掛けていた。
「いいから開けろ。幸右衛門だ」
低い声で言うと、やっと中で人の動く気配がした。
心張り棒を外す音ももどかしく、幸右衛門は乱暴に戸を開けた。
萱野は袴も着けず、寝起きのように衣服も乱れていた。白い顔に涙の跡をつけたまま怯えるような目で幸右衛門を見た。こんなふうにしどけない姿を見たのは初めてで、幸右衛門の体の奥でぱちっと焚き火がはぜるような不思議な感覚が起きた。
萱野が寝起きしているのは二間続きの単身者用の長屋だった。幸右衛門は萱野の肩越しに奥の間をのぞきこんだ。雨戸を閉め切ったままの居間は暗く、その中で書見台がひっくり返っていた。四書五経。儒学、朱子学の思想書。平家物語、太平記の軍記物。あまたの句集、歌集。彼の大事にしてきた蔵書が部屋の一角に散らばっている。
「どうした。気分はどうだ」
思わずその頬に触れた。萱野がうろたえ身をひき、よろめいて柱に手をついた。
「苦しいか」
支えるように抱き寄せると、力の抜けた体はまったく抵抗しなかった。
「あがるぞ」
戸を閉め、膝で小上がりにあがった。萱野を支えて奥の居間まで進む。
綴じ本の散らばった部屋の中に座布団をみつけ、萱野を座らせた。
「少しは食べられそうか。何か煮売りから買ってくるか。それとも蕎麦切りでも」
「幸右衛門殿……」
「秀富(ひでとみ)と呼べ」
字(あざな)を名乗ると、萱野が驚いた顔で幸右衛門の顔を見た。親しい呼び名を与えられた萱野の瞳は、徐々にすがるようないろを見せる。
「何もいりません。それより……」
ぎゅっと幸右衛門の袖をひいた。
均衡を崩した幸右衛門は、萱野に覆いかぶさるように倒れこんだ。とっさに萱野を潰さないよう片手で上体を支え、もう片方で萱野の肩を抱く。
「萱野」
「わたしは重実(しげざね)です」
「しげざね」
ゆっくりなぞるように新しく与えられた名前を呼ぶと、萱野は目を閉じて幸右衛門の胸に自分から額をおしつけてきた。幸右衛門はひどく酔ったように身体中が熱くなるのを感じた。彼の首の下に腕を入れて抱きとめた。
今まで萱野が人に頼るところを見たことがなかった。こんなふうに甘えることも、人に頼みごとをすることさえ、自分に禁じているようだった。そこまで潔癖に他人に弱みを見せなかった萱野が、今は人が違ったようにすがりついてくる。その弱さが愛おしくてたまらなかった。
十三歳で奉公を始めた時から、ずっと胸にとじこめてきた寂しさや心細さが、今回の事件で自制を失ってあふれでてしまったのかもしれない、と幸右衛門は思った。
「兄から聞いた。釆女ヶ原の厩舎でいやなものを見たか」
なぐさめるように優しく言うと、萱野は小さく首を振った。
「いえ。嫌ではない。嫌ではなかったのです……ですが、もう、わたしにはわからなくなってしまいました」
声が泣きをおびてうわずる。
「馬たちは……あのために生きているのでしょうか。あれをするために生きているのでしょうか」
苦しい心情をたたきつけるように幸右衛門の胸で熱い息を吐いた。
「わたしは今まで、馬たちを憐れに思っていました。解脱(げだつ)できずに畜生に生まれかわってしまっただけで、前世は人だったやもしれず。それなのに、戦場では矢に撃たれ、槍に刺され。あるいは日々、荷車や馬鍬(まぐわ)をひかされて。でも、あの馬たちはああして、互いに激しく求め、求められて生きていたのです」
しゃくりあげそうになるのをこらえて、苦しげに息を吸う。
「人も同じですか。秀富殿、どう思われますか。人もまた、あのために生きているのですか。おのれではない誰かに、これより上はないというほど求められて、与えるために生きているのですか。だとしたら――わたしはからっぽだ」
からっぽ。自嘲するようにそう言った声には絶望の響きがあった。
「武芸の家に生まれついたうえは、主君に仕え、その盾となって身を投げ出し果てることこそ一番の誉。しかし――人は誰しもその使命だけで生き、死ねるほど強いものでしょうか」
萱野の下まぶたにみるみる水滴がふくれあがり、頬を濡らした。
「誰もいない。わたしにはなにもない。どんなに書を読み学問に励んでも、世のことわりを知ろうとも、雅を解そうとも、わたしはずっとからっぽのままだ」
誰もいない、と言いながら萱野の指は小刻みに震えつつ幸右衛門の袂をつかんではなそうとしない。幸右衛門は萱野の肩を自分のほうへ引きよせた。泣いて息の乱れる唇を乱暴に吸った。
驚くほど柔らかな感触と、唇の隙間から漏れ出る熱い吐息が、幸右衛門を狂おしい気持ちにさせる。
「――っ」
顔をはなすと、頬を真っ赤に染めた萱野が見上げていた。
「からっぽなんかじゃない。お前には、おれがいる」
声にならない声をあげて、萱野が泣きくずれた。
幸右衛門はわななく体を優しく抱きしめていた。
生きるとは何か、なんのためか。萱野はそんな問いの答えを追求しなくては生きられない人種なのだ。儒学者、朱子学者たちの難しい書物も。漢詩も短歌も俳句の世界も。たくさん抱えこんだ知識は、彼が空虚な心を支えるためについていた杖だ。それが今、飾りのない馬の交尾を目の当たりにした衝撃で転げてしまったのだ。
(立ち上がれないから、おれにつかまればいい)
少し呼吸の落ち着いた萱野のおとがいに手をかけ、ぐいと持ち上げた。
「口を開けろ」
目尻を紅く染めた萱野が、涙をためたままおずおずと唇の隙間をあける。
その様子は未知の体験に怯えるようで。期待にときめくようで。いいようのない可憐さに幸右衛門は理性を失った。かみつくようにして唇を重ね、舌をねじこんだ。萱野が納得できるまで求めてやるつもりだった。
「…………っ。……ふっ。……ぅく」
萱野の両手が幸右衛門の着物をまさぐって肩にすがる。もれる声は苦しげでいて、時に甘えるような艶をにじませる。
萱野がこんな声をあげていることにたまらず、うねる舌をからめとって吸いあげた。同時に膝で小袖の裾を割った。おし広げるようにじりじりと位置をあげて、もう熱を持ち始めた股を下帯(褌)の上からぐり、と刺激した。
びくり、と萱野の全身がはねる。
「…………っや。…………もう、もう」
いやいやをするように顔をそむけ、唇が離れた途端にぷはっと息を吸った。
ぱたりと畳に倒れ、はあ、はあ、と上気した顔で激しい呼吸を繰り返す。髷が乱れてしまう、と思ったが、今はもうそれにかまっている余裕はないようだった。細帯の下がもういやらしく持ち上がっている。
「もっとよこせ、重実」
休息もほとんど与えずに、さらに口吸いをねだった。萱野はぐったりとしたまま、小さくうなずく。
再び、覆いかぶさって唇を重ねる。咥内の温かく濡れた肉の感触を交換しながら、時折、膝を使って股間をこすりあげた。
「あっ、もう…………ん、あっ」
数回繰り返すと、萱野はたまらないように大きくのけぞって苦しげに喘いだ。
「あ――――あああっ」
体を突っ張らせたと思うと、精を放ち下帯を濡らした。どくり、どくり、と萱野の生命が晒し木綿の下で脈打っていた。
快感の吐息まであまさず吸って幸右衛門が唇をはなすと、羞恥に目をうるませて見上げていた。
「こ……こんな、あさましい、姿を……」
人に見せるなんて、とでも思っているのだろう。
「男を相手にするのは初めてか?」
「……男も、女も」
「知らぬか」
幸右衛門は微笑ましく思った。
「秀富は?」
「元服のあと、兄に勧められて湯女を買ったことがある」
萱野の目が一瞬見開かれ、少し不安げにさまよう。
「……女は、いいものか?」
「もう、忘れてしまった」
「そんなものか?」
あっけらかんと言うと、横たわったままの萱野は力なく笑った。
「男にしろ、女にしろ、情がわかなければそんなものだ」
「情、か」
「ああ。でもお前のことは忘れない。ずっと忘れない。今からそう思う」
幸右衛門は手を伸ばし、萱野の額に触れた。額と月代の境目を撫で、耳元に数本さがった鬢のほつれ毛を愛しげになでつけた。萱野がその手をおずおずと握る。
「……嬉しい」
はにかんでつぶやく様は、また幸右衛門の鼓動を速くした。
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