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第9話 【平成】ケガと意地

 注射器の筒の中に、音もなく薄黄色く濁った液体が溜まっていく。途中から赤い糸をひくように血が混じりだした。  診察用のベッドに足を伸ばして、看護師に注射針を刺されていた。腫れた右膝にたまっていた組織液が抜かれていく。 「内出血してるのはよくないね」  小野寺の膝に手を添えた速水医師が、整った眉をひそめて言う。白衣の襟元からブルックスブラザーズのボタンダウンの襟がのぞく。若々しいチェック柄だ。話すときにちょっとあごに手を添えるのがこの医師の癖だった。 「ヒアルロン酸注射と抗炎症剤、痛みどめで今シーズンはのりきれるかもしれないけど……」  プロらしい淡々とした声が診察室に響く。 「わかってると思うけど、この短期間に膝に水が溜まるっていうのは、もうそうとう軟骨部分がすり減って半月板が傷んでるからね。根本的には、やはりメスを入れないと」 「……わかってます」  小野寺には、自分の声がどこか他人のように聞こえた。  大学のグラウンドからもっとも近い救急指定の外科病院の一室だった。ここの速水医師がラグビー部のチームドクターだ。まだ三十代の若さだがこの病院のオーナー院長の息子で、落ち着いた物腰もどことなく余裕を感じさせる。 「……皮肉なんだよね。精神力の強いアスリートほど痛みを我慢できてしまうから、体のほうは手遅れになりがちだ」  君たちは手を抜くってことを知らないからなあ、と困ったように微笑んだ。看護師が膝から注射針を抜いた。控えていたもう一人が、脱脂綿でおさえ上からテープを貼ってくれた。 「それで、俺に来年はないんですか?」  静かに尋ねると、速水医師はカルテに向かったまま首だけをまわしてこちらを見た。 「小野寺くん、来年が最上学年だよね。やりたいよね」  背もたれに背中をあずけて、ふうっとため息をついた。 「手術について、もう少し前向きに考えてみてもらえないかな」 「十字靱帯じゃないんだ。半月板は、メス入れたら即引退ですよね」 「十字靱帯だって昔はそう言われていた。それでも手術をして一線に戻ってくる選手たちがその常識をくつがえしてきたんだ。君が道をきり拓けないという理由なんかどこにもないんだよ」  優しく言い聞かされる。希望を感じさせる言葉だが、それは報われる保証のない茨の道だ。 「俺は一分でも、一秒でも長くグラウンドに立っていたいんです」 「小野寺くん、もう少し長期的な視野にたって考えられないかな」  辛抱強く冷静に話し続ける医師の前で、小野寺は下唇を噛んだ。  口の中で、胸の奥からつきあげてくる言葉を殺す。  俺が試合に出ることで、喜んでくれる人がいるんです。その人は、すごく生きづらい世界を耐えているんです。  俺がトップスピードで跳ぶように走り、ステップで鮮やかに敵をかわし、ゴールラインに飛びこんでトライをとるのを見て、生き返ったように興奮して喜ぶんです。勇気がわくって言ってくれるんです。  そんな彼のことが――――俺はどうしようもなく愛おしいんです。俺たちのそんな関係をどうか壊さないで。ほうっておいてください。俺のそのあとの選手人生なんて、今の彼の笑顔となんの未練もなくひきかえにできるんです。迷いのない気持ちでそう考え、一瞬にして悟った。 (そうかこれが、恋だった)  漫画やドラマの中でしか知らなかった恋だった。自分とは無関係のものだと勝手に信じていた気持ちだった。 「俺には……現役を続けることに意味があるんです」  絞り出すように言うと、速水医師は顔を伏せた。しばらく考え、やがてデスクの卓上カレンダーを手に取った。 「公式戦がはじまるのは、十月の二週目からだったね。試合は午後?」  小野寺はうなずいた。 「日曜だから外来はやってないけど、昼の十二時から一時まで、君の診察は受け付けるようにしておくよ。注射が必要だったら監督の許可をとって来るようにね」 「ありがとうございます」  礼を言いながら、まくりあげていた右足のジャージを下ろした。なにげなくふるまいながら、小野寺は内心動揺していた。速水医師の言う注射というのは、試合前の痛みどめだ。 「小野寺くんぐらいの選手ならもうわかっているとは思うけど、痛みというのは体の限界をしらせるシグナルだからね。それを痛みどめでわからなくする、というのはむちゃをして、さらに悪化させるリスクを負うということだからね。これで走れるようになったなんてかんちがいしちゃだめだよ」 「わかってます」  無気力に答えて診察台から足をおろし、履いてきたサンダルをつっかけた。  速水医師が、思いつめた顔で言う。 「手術の件、もし僕の腕が信用できないなら、他のスポーツドクターにあたってみてもかまわない。君のためになるならいくらでもカルテを外に出すよ。引退は、君が自分自身をあきらめてしまった時に訪れるんだ。僕はまだ患者として君をあきらめていない。今までわずかな可能性を信じて苦しい試合を戦ってきた君なら……」 「わかってます」  ぐ、と医師が黙る。小野寺はにがいものが胸にひろがるのを感じながら診察室を出た。  「どうだった? 今シーズン終わったら手術にする?」  のんきな口調で遠慮なく切りこんできたのは、ラグビー部の主務を務める長谷川達夫だった。  病院の待合ソファで携帯をいじりながら、ビジネスマンのようなシステム手帳をひろげている。マネージャーの頭である主務をやっているが、実際の仕事は監督のアシスタントや付き人のようなものだった。大学ラグビー協会の仕事もあり、いつも忙しそうだ。今日は主力選手である小野寺の膝の具合を知るために、監督に派遣されたのだろう。 「手術はしない」 「マジ? 速水先生治るって?」  同じ三年生で気安く口をきく。小野寺は葛城のようにキレたりしない、と高をくくっているのだろう。 「俺はっ」  いらだちをぶつけるように声を荒げると、長谷川はにこっと笑った。 「俺みたいにはなりたくないんだろ?」  なんでもないことのように。  長谷川も前は選手だった。二年の時に肩の亜脱臼を悪化させて骨をボルトでとめる手術を受けたものの、試合中にもう一度脱臼を起こした。  金属ボルトが肩の内部で折れ、関節をはめることもできずに病院の処置室に入るまで七転八倒した。長谷川の尋常ではない痛がりかたに驚き、青ざめたまま動けずにいる女子マネージャーたちをおしのけて救急車につきそいとして乗りこんだのは小野寺だった。練習試合のために着ていたリザーブジャージをベンチに脱ぎ捨てて車内に上がり、脂汗をかいてのたうちまわる長谷川をストレッチャーのわきで励まし続けた。  そして長谷川はこの病院で二度目の手術を受けたあと、選手からマネージャーに転向したのだった。 「これからは裏方でみんなをサポートすることにするよ」  退院してきたその日に寮のみんなに宣言した。そんな長谷川にどう接していいのか、当時の小野寺は戸惑っていた。  それから、筋トレルームでも記録係に徹し、グラウンドを走ることもなくなった長谷川の体はみるみるたるんで、今や現役の頃の見るかげもなくなっていた。主務はミーティングの議事録作成や会計帳簿の管理などデスクワークが多いのだ。  小野寺は寮の風呂場で長谷川の裸を直視することができなかった。彼の脇の下から肩上にむかって赤くみみず腫れのようにもりあがった手術痕。そして中年のように脂肪だらけになってしまった体を。ほんの一年前まで、彼だって周囲の期待を背負う選手だったはずだ。 「わー、長谷川さん、Cカップくらいあるんじゃないすか、すげー」  などと言って津和野はぷよぷよ無邪気に揉みしだいていたのだが。  「小野寺は俺とは違うって、わかってるよ」  そう言って、長谷川はボールペンの先で髪をかいた。 「結局、俺はいくじなしだからさ。もう痛いのはこりごりっていう。でも……手術するにしろ、しないにしろ、いつかはラグビーを辞めるときが来るんだし。その時どうするか、考えておいてもいいと思うんだ」  それからひと呼吸おいて手帳から顔を上げ、小野寺の顔を横からのぞきこんできた。 「どうかな、おもいきって一緒にマネージャーやんない? その時は小野寺が主務で俺が副務でいいよ。小野寺の方が人望あるし。俺、協会の仕事とかあるし一人だと結構大変でさ」 「お前が主務だろ」 「いや、あんとき、救急車で寝てた時、俺、小野寺にはかなわねえなって悟ったんだよ。『まだ試合中なのに』『やっと試合に出られたのに』って泣き叫ぶ俺に、『肩さえ治れば、またいくらでも出られる』って言ってくれただろ。嘘だってわかってたけど、もう無理だってわかってたけど。あの時は小野寺がそう言ってくれるのだけが心の支えだった。ああ、俺はこいつにもう一生頭あがんねえんだろうなって、どっかで思ってた」  小野寺はその顔をじっとみつめた。長谷川は感傷的に語ってしまったことを誤魔化すように、またにこりと笑った。食レポのうまい芸能人のような笑顔だ。 「裏方も案外やりがいあるんだぜ」 「いや、俺には無理だな」  小野寺はうつむいた。  長谷川は監督を始めとするコーチングスタッフの極秘会議に、学生で出席できる唯一の存在だった。四年生でも、長谷川をこっそり人気のないところに呼び出して、自分に対する監督の評価や、今年の試合に使ってもらえそうかどうかを教えてくれ、と頼みこんでいる者がいた。  それをあたりさわりなく受け流すのは、不器用な小野寺にはできそうもない芸当だった。  ひょうひょうとして面の皮の厚い長谷川。彼だからこそ務まることがあるのだ。  ――いつかはラグビーを辞めるときが来るんだし。  なんてひどい言いぐさだろう。そう思いながら、小野寺は怒る気をもう失っていた。思い出したのだ。春のことを。  今年の四月、新しい部屋割りになって何人かの部員が部屋を移動した。小野寺と津和野のコンビはそのままだった。  他の部員たちが引っ越し作業を行う中、食堂の脇にある大きなゴミバケツの陰に、肩用のサポーターが捨ててあるのが目にとまった。それは、メーカーに特注で作ってもらった長谷川専用の肩サポーターだった。  今までこれを大事に保管していたんだ、と思った。  主務に転向しながら、いつか出番があるかもしれない、と隠し持っていたのだ。  小野寺はあわててトイレに駆け込んで、ほんの少し泣いた。あの日担架で苦しんでいた長谷川は、まぎれもなく選手だったのだ。

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