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第10話 【平成】死と情と
「あ、そうだ。試合の前に痛みどめ打ってくれるって。監督と相談してって先生に言われたんだけど」
「わかった。伝えとく」
長谷川がサラサラと手帳にボールペンを走らせる。
「とうとう俺も痛みどめ打たれるようになるんだな」
「曽我さんには黙っててくれよ」
「無理だろ。あの人に隠し事は」
「ま、小野寺はあの人のお気に入りだしな。曽我さんもなー。全然丸くなんないもんな。ある意味尊敬するよ」
長谷川が苦笑した。
曽我は選手が痛みどめを使うことをひどく嫌うのだ。注射一本は故障をさらに悪化させるリスクはあるが、まだ許容範囲。二本は許さない、というのが曽我の考えだ。
修教大の選手は四年生の最後のシーズンに限り、希望すれば痛みどめを二本まで打ってもらえることになっていた。リスクはある、しかし最後の試合で悔いのないプレーができるように、ということだ。おそらく法的にもそのあたりがギリギリの使用量なのだろう。
そうしてできあがるのは、まったく痛みを感じないモンスターだ。小野寺も今までそういう先輩と一緒に試合に出てきた。古傷の痛みをまったく感じなくなった先輩は、今までになく饒舌でハイになっていて、一緒にいて恐ろしかった。薬のせいで人間性まで変わってしまうのだ。
「そんなの立派なドーピングだろ? そんな怪物、試合に送りこんでどうする。そんなの練習の成果でもなければ、本人の根性でもない。自分たちで練習や努力を否定してどうすんだ」
曽我はこの件に関して速水医師に容赦なかった。
「あいつは結局、俺たちのことなんかなんもわかってねーんだよ。最後だからこそ、今までの集大成だからこそ、フェアにやんなくてどうするんだよ。こいつらの決死の試合を薬で汚しやがって、あのクソ医者、絶対に痛い目にあわせてやるからな!」
と息巻いていた。それでも今のところ速水医師が「怖いお兄さん」に痛めつけられていないのは、葛城の腰痛を完治させたことで執行猶予がついたからだろう。
小野寺は、病院の壁にたれ下がるポトスのフェイクグリーンをみつめた。ハート型の葉がつやつやと連なってエアコンの風にかすかにそよいでいる。それを空虚な思いでみつめた。
膝が使いものにならなくなって選手をやめ、マネージャー業もできないとなれば、自分に残された道はなんなのだろう。寮を去るしかないのだろうか。どこかの夜逃げ部員のように、退部届けだけを残して出奔すればいいのだろうか。ラグビーで入った今の大学も辞めて、のこのこ実家に帰ればいいのだろうか。
はあ、と小さなため息をつく。今、茅野に会いたい、となんの脈絡もなく考えていた。
次の月曜日は、また大学の掲示板の前で落ち合った。二人でしゃぶしゃぶの食べ放題の店に行った。もちろん茅野のおごりだ。
「ランチタイムは安いんだから、遠慮しないで」
お小遣いはふんだんに与えられているらしい。今日も細い背中に、重たげなデイバッグをしょっていた。
「どうする? もう一人前肉もらう?」
肉の入っていた重箱風のケースが黒いテーブルにたかだかと積み上がっていた。小野寺が問うと、茅野はちょっと恥ずかしそうに笑った。
「僕もう肉より、甘い物が欲しいな」
「デザート?」
「うん。とってくる」
楽しそうに席を立った。
半個室、と呼ぶのか従業員の出入りする部分だけが空いた小部屋だった。壁付けされたコの字型のソファに座った小野寺の前では、トマト鍋つゆと京風昆布だしが、二つに仕切られた鍋の中で湯気をあげている。
やがて茅野が戻ってくると、小さなガラス器にまんまるに白いソフトクリームが盛られていた。
「もっと、こう、タテにねじねじするんじゃないの?」
「見てて」
そう言って、別の皿に持ってきたコーンフレークを二つ刺した。チョコスプレーで目鼻をつける。
「あ、ネズミか」
「クマさんだよっ」
ちょっとふくれたあと、声をたてて笑った。こんなささいなことがひどく面白いようで、くったくなく笑う。
「お前、溶けるぞ。そんなことしてると」
スプーンを持っていつまでも笑っている茅野に、小野寺もつられて精悍な顔をゆるませた。
「この前、コンビニでこういうスイーツ見たんだ。その時、小野寺にも見せたいなあ、って考えたんだよ」
笑顔で話していた茅野が、突如はっと顔をこわばらせた。何か思い出したようにようだった。全身が緊張感にかたまっているのがわかる。
「あ……あの、ごめんね。食べ物で遊ぶなんて、僕、行儀悪いことして……」
両手を口の前で重ね、おそるおそる小野寺のほうを上目づかいに見る。
「いや、俺はそういうお行儀はよくしらねーし」
「そう?」
「行儀とかより、茅野がさっきみたいな顔してるほうがいいな」
「さっきみたいな顔って?」
とまどったように小野寺を見る。
小野寺はまた、ふっと目を細めた。
「フツーの顔して笑ってた」
一瞬、茅野は小野寺の優しい笑顔に見とれたようだった。キツい目つきはそのままだが、まるで戦士が勝利を確信したときのように不敵に笑う。その男らしい色気にのまれるように茅野は陶然と見入っていた。
「僕っ……僕は、小野寺と一緒にいるときだけ、自分がちゃんと生きてる気がするんだ」
顔をほのかに赤く染め、まるで恥ずかしさを誤魔化すように、溶けかかったクマの顔をざっくりすくいとって口に運ぶ。
こんな時、おもいきってキスでもできれば何かが変わるのだろうか。そんなことを考えながら、小野寺はクリームのついたさくらんぼのような茅野の唇をみつめていた。
「うわー、すっごいお腹いっぱいだ。これって元とれたのかな」
いつものとおり、グラウンドまでの道を歩いていた。飲食店、パチンコ屋や携帯電話ショップの建ち並ぶ駅前の繁華街から裏道に入り、高速道路の高架下に作られた緑道を歩いた。意味のわからないスプレーの落書きが残るコンクリートの柱の隙間をぬって、高架がつくる日陰を歩く。
車の通過音を響かせる高架。排気ガスに灰色に染め上げられた防護壁。やがてそれらが出口に向かって大きくカーブを描いているところに出る。三角にのぞいた空には、ラブホテルの電飾看板が高々と掲げられているのが地上からも見えた。そのせいなのかここには昼間も子供連れがひどく少なかった。誰も乗らないブランコの鎖がひっそりと錆びている。
秘密基地でも作るのにうってつけの場所を、デイバッグを背負った淡いベージュのセーターが楽しそうに歩く。ツツジの植え込みのあいまに自生したススキの穂とアワダチソウの黄色い花が微風にふわふわ揺れて彼のまわりをいろどる。ブランコの柵に巻きついたテッセンのつるが棒つきキャンディーのような球体の綿毛を実らせていた。茅野がすぐそばをとおると、ふわり、とはかなく崩れて舞い落ちる。
近くの樹のこずえから鳥の声がした。ピーピー、チュクチュクチュク、とせわしなく鳴いている。小野寺は目線をあげた。鶯色の小鳥。メジロだろうか。
その時、少し先で茅野が立ちつくしているのが見えた。体が震えている。
土をかためた歩道に、まだ尾羽が短くずんぐりとしたメジロがうずくまっていた。幼鳥だ。
「あーあ、巣立ちに失敗したな」
小野寺はさっと茅野の前へ出ると、かがんで手を出した。ひな鳥はぱっと逃げようと羽ばたいたが、五十センチほど飛ぶとすぐに着地してしまった。
「まだ飛べないくせに、巣を飛び出した無謀な奴だな」
驚かさないようにそっと近づき、手の平にすくい上げた。
頭上で親鳥がうるさく鳴いている。
「ここじゃ、ノラ猫にやられちゃうからな」
言い訳のように言って、ひな鳥を近くの大きな樹にとまらせてやった。先ほどから足はしっかりしている様子だから、これで大丈夫だろう、と小野寺は思った。
さっと親鳥が降下して、ひな鳥のとまった同じ樹にとまる。こんもり茂ったキンモクセイの木は、すでに控えめに花をつけていた。あとは、親鳥が安全な場所に誘導するなり、守るなりするのだろう。
やれやれ、と小野寺がふりかえると、茅野が腰を抜かしたように座りこんでいた。
「どうした?」
顔色が悪い。呼吸が浅い。
「ごめん……なさい。ごめ」
ほろり、と涙がひとしずく落ちた。一つ落ちたあとは、絶え間なくはらはら落ちた。
小野寺はとりあえず茅野を少し先にあったベンチに座らせた。呼吸が乱れて苦しそうだった。落ち着くまで、しばらく自分に寄りかからせ、背中をなでてやった。
茅野はやがて、震える声で話し出した。
「ごめんね。思い出しちゃったんだ。……昔、ひどい夕立のあと、ツバメの巣がおっこちてたことがあって。さっきみたいにひな鳥たちが地面に落ちてて、空では親鳥がいっぱい鳴いてた。……兄さんと僕で歩いてたんだ。兄さんが、その時はもう高校生だったけど、小学生の僕に言うんだ。『踏みつぶせ』って」
そこでたまらないように、茅野はすすりあげた。
「そのひな鳥はさっきのメジロよりずっと小さくて羽も全然生えてなくて、すごく弱ってた。『もう助からないから、これ以上は苦しむだけだ。お前が早く楽にしてやれ』って」
小野寺は眉をひそめた。子供は時として残酷だ。どぎつい度胸試しのつもりだったのだろうか。年の離れた兄は、小学生の茅野になんてことを命令するのだろう。
「でも……弱ったひな鳥は、やっと聞き取れるくらいのちっさい声でヒーヒー鳴いてるんだ。空で親鳥が半狂乱みたいに鳴くと、答えるように、ヒー……ヒー……って一生懸命鳴くんだ」
茅野の頬に新しい涙がこぼれた。小野寺はいつのまにかそれを指先ですくってやっていた。こんなゲイカップルよろしくのことはしないつもりだったのに、目を真っ赤にした茅野の泣き顔を見るとそうせずにはいられないのだ。
「……やらないほうが残酷なんだって兄さんが言った。お前は軟弱ないくじなしだって。父さんと母さんが甘やかしたから、こんな自分勝手な偽善者に育ったんだって。優しいふりしてずるい奴だ。人の顔色ばっかり見て卑しいって。兄さんが大きな声で罵るんだ」
茅野がうつむいて頭を振る。こんな僕に優しくしないで、と訴えるようだ。
「僕は……それでもできなかったんだ。暑くて。夏の夕立のあと、蒸されるような熱気に包まれていて。頭の上で二羽の親ツバメがぐるぐる飛んで、狂ったように鳴くんだ。目の前のひな鳥は、、濡れたアスファルトの上で巣の残骸にドロドロに汚れて。もう立ち上がることもできないほど弱っていて――苦しいだろうなって。ゆっくり死んでいくのは怖いだろうなって。それは僕にも痛いほどわかるんだけど。それでも殺すことが出来なかった。胸が痛くて、息苦しくて、そのうちぐにゃぐにゃ世界がねじ曲がって……それで、そのまま僕は気絶しちゃったんだ」
茅野は両手で頭をかかえ、まっすぐの髪をくしゃくしゃ混ぜた。
「僕は……ずるいのかな? あのひな鳥を殺せなかった僕は……ダメな人間かな?」
「茅野は正しいよ」
苦悩する耳元に優しくいいきかせる。
「本当?」
「殺さなくていいんだ。生き物がいずれ死ぬことはもう決まってるんだから。『どうせ死ぬ』なんて言い出したら、全てが無駄ってことになっちまう。そんなのやってらんないだろ」
「でも……」
「苦しくてもいいんだ。上空を飛ぶ親鳥が、最後まで自分たちを必死で呼んでいてくれたことを知って死んでいける。愛されたことを知って死んでいける。とおりすがりの人間の子供が、その命を憐れんでやったことも」
「僕は、ひどくない?」
「少なくとも、俺はそう思う。……それに、茅野にもお兄さんみたいには考えてほしくない。どうせ死ぬから全部が無駄だなんて」
茅野はいきなり小野寺の胴体にしがみついてきた。
「怖かったんだ。小野寺にも、僕は軟弱でずるい奴に見えてるのかなって。本当は周囲のみんなもわかってて、僕のこと笑ってるのかなって」
ひきはがすこともできずに、ただ背中に腕をまわして抱きとめた。
三年間、一緒に食事を続けて初めての正面からのハグだった。はりついた茅野の体から、かぎなれたウッド系の清涼な匂いがする。服ごしに茅野の鼓動を感じると小野寺の体は共鳴するように熱くなった。
「無駄じゃないって言って」
茅野は額を小野寺の胸におしあてたまま、駄々っ子のように言う。「無駄じゃない」というのはこの抱擁のことだろうか。それとも、もがきながら生き続けることそのものを言っているのだろうか。
「無駄じゃないよ」
ささやくと、急に体から力が抜けた。茅野の顔は安心しきって、もう眠くてたまらないようにとろんとしていた。
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