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第11話 【平成】愛とはみとめない、関係
ぽり、さく、と津和野がスナック菓子を噛む音がする。さっきから物音を立てないように遠慮しているのだ。小野寺は苦笑した。
「そこまで茅野に気をつかわなくていいよ」
「いやでも、この人、小野寺さんの大切な人っすよね」
目だけで二段ベッドの上段を見る。今そこに横たわっている青年を。
「恥ずかしい言い方すんな」
「この人きっとなんか事情があるんだなあって、この前から思うんすよ」
津和野の顔は、今日は彼らしくなく考えこんでいるようだった。小野寺は椅子から立ち上がって、津和野の座っているところへ歩み寄る。
「津和野さー。そういうちっさな破片がぼろぼろこぼれそうなお菓子食べるとき、まわりにこぼさない食べ方って知ってるか?」
小野寺がそう言うと、津和野はあわててティッシュをとって、フローリングの床をこすりはじめた。
「いや、掃除しろって言ってんじゃなくって。食べ方。俺も知らなかったんだけど」
小野寺は、津和野の隣に腰を下ろして、スナック菓子をひとつつまんだ。津和野が見守る中、口元へ運び一口前歯で噛んだ。そのまま唇を話さず口から息を吸うと、掃除機のように細かい破片が小野寺の口の中へ吸いこまれた。
「ほら、な」
「なんすかその食べ方」
「こいつ、そうするんだよ。俺もそんなことする奴初めて見たけど」
ベッドの茅野を二人で見上げる。
「きっとガキの頃から、まわりに食べこぼすなって厳しく言われて、こんな食べ方マスターしたんだろうな。そういや、昔はフライドチキンも食べられなかったんだよな。手が汚れるし、食べかすが汚いから人前で食べたくない、とか言って」
「潔癖症なんすか」
小野寺は静かに笑った。
「いや、潔癖症だったら、俺の汗臭い布団なんかで寝られないだろ。たぶん周囲の人が潔癖というか完璧主義で、それを押しつけられて育ったんだろう」
津和野が眉間にしわを寄せた。
「なんか……つらそうっすね」
「津和野、呑気症(どんきしょう)って知ってる?」
「あ、ドンキ? 呑気症?」
「ストレス性神経症の一種なんだ。ストレスを感じると、腹の中に空気を飲みこんでしまう。それで胃の中も食堂もぱんぱんになって苦しくて、吐き気すら感じるんだけど、中身は空気だからべつに吐きはしない。でも、胃の圧迫感でメシは満足に食べられないんだ」
「茅野さん、それなんですか」
小野寺はうなずいた。
「症状をきいて俺がネットで検索しただけだけど。たぶん、こいつは睡眠障害と呑気症。自分の家にいるとつらいんだ。でも――」
そこで小野寺は、膨らんだ布団をながめた。顔は見えないが、布団の山が規則的に上下して、茅野のやすらかな呼吸を伝えている。
もう限界なのだろう。瑕疵のない真珠のような寝顔を見せながら、その裏側では家族の期待に応えるため努力し続け、身も心も壊れかけている。
「――それでも、なぜか俺の前ではニコニコしてすごく食べるんだよ。睡眠導入薬飲まなくてもぐっすり眠るんだよ」
語尾が震えた。そんな茅野が愛おしくて仕方ない。守ってやりたくてどうかなりそうになっているのだ。突然胸の上に重い物を載せられたように、ぎゅっと肋骨の奥が痛む。津和野の前なのだと意識していないと泣いてしまいそうだ。
津和野が困り顔で微笑んだ。
「だから小野寺さん、わざとステーキとか食べに行ってるんすね。少しでも栄養があってハイカロリーなもの、茅野さんに食べさせたいんですね。そんで、ここで毎週茅野さん寝かせるんですね」
そして、なあんだ、とつぶやき立ち上がった。自分のタンスから着替えのTシャツとタオルを出す。
「俺、今から上の筋トレルーム行ってきます」
「は? 今日は練習オフだろ?」
「いやもう、そんな話きいてここにいられるほど、俺野暮じゃないっすよ」
「お前、何言って……」
「じゃ、ごゆっくり」
あいかわらず愛嬌のある顔でにやりと笑うと、出て行ってしまった。取り残された小野寺は床にすわったまま、しばらくぼう然としていた。
「……津和野くん、すごくいい子だね」
ふいに沈黙が破られた。茅野の声だ。起きていたのだろうか。
「……僕は、津和野くんがうらやましい。秀幸といつも一緒に暮らせる津和野くんがうらやましい」
ひでゆき、と下の名前で呼ばれて小野寺はどきりとした。心細そうな声は、張りもなくやはり眠たげだ。
「秀幸、大学出たら一緒に住もうよ。毎日一緒にご飯食べて、秀幸の側で眠るんだ」
夢見るようにつぶやく。小野寺は、腹の底をしぼられるようにせつなくなった。
二段ベッドのはしごを登る。
「みのる、俺も眠くなってきた。一緒に入れて」
半分目を閉じた茅野が、横向きになって壁側に身を寄せる。小野寺は白い木綿のカバーのかかった布団をめくった。茅野のフラノのズボンが見えた。隣に身を横たえると、茅野の存在感が、そこで小野寺を待ち構えていたようにからめとった。気配も、匂いも、体温も。くらりと小野寺も目を閉じた。
「人のあたためた布団って、こんなにやわらかいんだな」
ずっと待っていたのかもしれない、と思った。こうしていつか俺が一つのベッドに忍びこんで触れにくるのを。
脚の裏側に膝をそわせ、後ろから抱きしめるように添い寝した。茅野の体は、まるでどこかで深く愛し合ったことがあるかのように、しっくりとくる抱き心地だった。痩せた男の背中を抱いているだけなのに、いとしい想いだけが、どこからかこんこんとわきでてくる。湧水のようにくみあげる暇もなくあふれては二人を透明にひたしていく。
これ以上ないほどやさしく平穏な気持ちだった。静かな部屋の中でたがいの呼吸音だけを聴いていると、再来週から始まる公式戦のことも、膝の痛みのことも、どこか遠くの世界のことのような気がした。
(俺たちはもう疲れたんだ)
小野寺はぼんやり考えた。
誰かの期待を背負って力強く正しく生きることに、少しだけ疲れてしまったんだ。
このまま彼だけを抱いて、全てを捨ててどこかへ逃げてしまえたら――祈るようにそう考えた。
ふいに茅野がかすれるほどの小さな声で尋ねた。
「秀幸、僕そっち向いてもいい?」
「だめ」
「秀幸」
懇願するように訴える。
「今は、だめ」
小野寺は目を閉じ、太い腕の力を抜いて、あやうい関係ごと茅野を内側に閉じこめた。今はこのままでいい、と自分に言いきかせるように。
小野寺は夕食前に茅野を起こし、玄関まで送っていった。デイパックを背負った背中は、ちょっとうかれたように、ひょこひょこ上下に揺れる。短い添い寝がお気に召したのだろうか、と小野寺は思った。
「じゃあ、また、来週掲示板の前で待ってるね」
そう言って踵をかえすと、とんとん、とタイル敷きのアプローチの階段を降りていった。
もう寮の門柱に明かりが灯りだした薄闇を、さらさらした綺麗な髪がゆるやかに遠ざかっていくのを見ていた。彼の向こうでは、オレンジ色の残照が、ちぎれてとぶ雲の下のほうを暖色に照らし、反対に上部分はうすねず色に陰らせていた。夜と昼の境目にある美しいグラデーションの中を、茅野は一人歩いていった。
茅野が角を曲がるところまで目で見送って、くるりと寮の入り口に向きを変えると、そこに野球部の南条の姿があった。
練習帰りらしい。汚れたユニフォームのまま、まるで小野寺が戻るのを待っていたように、入り口の柱によりかかって立っていた。
「お疲れ様です」
いつもどおり頭を下げると、南条がむう、と息を吐いた。太い眉を寄せ、重々しく口を開いた。
「小野寺、オフまで余計なことは言いたくないんだが、さっきの法学部の美人、ここでは絶対に一人で便所に行かすなよ」
「茅野のことですか? 美人って……あいつ男ですよ」
「だから余計にややこしい」
南条は厳しい顔になってうつむいた。
「ウチの部もお前んとこも、まともに彼女いる奴なんてほとんどいねえだろ。みんな部活一筋でそれどころじゃねえもんな。でも、人間はそんな強くねえしなあ。それがあんなお人形みたいな綺麗な顔していい匂いさせて、腕にもすねにも剛毛一本生えてないようなのがこのへんフラフラしてっからさ。そのうち間違いがおこるんじゃねえかって、俺は気が気じゃねえよ。むちゃなことやらかしても相手が男なら妊娠もしないし、簡単には訴えられない、なんて本気で信じてるバカもこの寮内にはいそうだしな」
小野寺はごくり、と唾をのみこんだ。茅野が寮生にそんな目で見られているなんて今まで考えたこともなかったのだ。さっきまでオレンジ色の夕陽にくるまれたような気分でいたのに、一気に冷水を浴びせかけられたような気持ちになった。
「冗談っすよね」
力なく笑う小野寺に、南条は重たい口調で返す。
「冗談で済めばいいんだがな」
「南条さん、俺らは別に……」
「小野寺、俺は頼んでるんだ。間違いが起きる前に白黒つけてくんねえかな」
「しろくろ?」
「お前の『女』だってはっきりすれば、誰も変な気おこさねえよ。人数の多いビー部を敵にはまわせねえだろうし、それくらいの仁義はみんな心得てる」
「すんません。何言われてんのかさっぱりわかんないっす。茅野は高校時代からのダチで……」
南条は再びさえぎった。
「小野寺、お前、俺達を信用してないんじゃないのか?」
まっすぐ問いかけられ、小野寺は思わず言葉をのんだ。常に下級生を威圧している強い視線には、今日はどこか痛々しげに小野寺をみつめていた。小野寺は反抗的な目で南条を見上げる。
信用していたら、抵抗なくカムアウトするとでも思っているのだろうか。
男を愛してます、なんて。
「失礼します」
小野寺は、きっ、と唇を引き結び南条の前から去った。早足で廊下を歩き、階段を上がる。
ここで茅野をオカマ呼ばわりさせたりはしない。ここは彼が唯一、安心して眠れる場所だ。
(守ってやる)
小野寺は、石ころのように固くむすんだ心を握りしめて階段をあがっていった。
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