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第14話 【元禄】刃傷松の廊下
その翌年となる元禄十四年三月十四日、幸右衛門の主君である浅野内匠頭が、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて吉良上野介を小サ刀(ちいさがたな)で斬りつけるという「殿中刃傷事件」が起きた。浅野内匠頭は公儀より即日切腹を申しつけられ、赤穂浅野家は播州の領地、赤穂城ともに接収され、事実上断絶となった。
喧嘩両成敗と示しながら浅野家だけが罪に問われるかたちとなった公儀の沙汰に、赤穂藩士は憤然となった。赤穂城あけわたしの際、集まった藩士たちは国家老の大石内蔵助を大将格として仇討ちの血判状を作成した。小野寺幸右衛門もこの時、養父小野寺十内とともに署名捺印した。この血判状には萱野三平も名をつらねていた。
その後、浪人となった小野寺一家は京都藩邸を去り、市中でひっそり生活するとともに仇討ちという大願成就のため、ひそかに同胞と連絡をとりあっていた。
幸右衛門にとっては悪夢を見ているのかと思うような一年だった。しかしいつまでたっても夢からさめない。
「君はずかしめらるれば臣死す」(主君がはずかしめを受けるようなことがあれば、その臣たるものは命を投げ出して主君の恥をそそがなければならない)の言葉どおり、士としての誇りをまっとうするには、吉良上野介を伐って散るより生きる道はないのだと自身に納得させるための一年だった。ただ、ともに萱野が誓紙に名前をつらねていることが、いつも彼の迷いを断ちきらせるのだった。愛しい人と戦い、同じ日に死ぬ。まるで芝居の中の至上の恋人たちのように。それだけが幸右衛門の心の支えといってもよかった。
摂津の国萱野の庄は、想像していた以上にひなびた土地で、幸右衛門にいっとき師走のあわただしさを忘れさせた。
尻はしょりした紺縞の腰には護身の短刀のみ。太刀も脇差しもない。ほおかむりに手甲、脚絆の旅装で行商人の格好をしている。背中にはたくさんの書物を風呂敷で包んで背負っていた。
萱野家の門の脇につきでた番所で駐在の中間に名乗った。
「萱野七郎左衛門様ご用の三文字屋の手代、正吉でございます」
いんぎんに頭をさげた。
「三文字屋?」
「版木屋でございます。ご注文の新装版太平記を刷り上げましたので、お届けに上がりました」
ああ、と合点がいった様子で、中庭から隠居所の縁側へ案内された。
萱野家の中庭は、近くの河から小川をひきこんで景趣を作らせた手の込んだものだった。この小さくも清い流れからとり、萱野の俳号は「涓泉(けんせん)」と名付けられたのだと本人からきいたことがあった。ふっくらと羽をふくらませた雀たちが、枝折り戸にとまって幸右衛門を物珍しそうに見ているようだった。
「これはこれは」
障子が開き、綿入りの半纏を着た老爺が縁側まで歩み出てきた。幸右衛門はあわてて膝をついた。
「ご隠居様、ご機嫌いかがでしょう。先日ご注文くだすった太平記の新装版が一部仕上がりましたのでお持ちいたしました」
風呂敷包みを解いて、一番上に載せていた四冊の綴じ本をうやうやしく差しだした。
「ほう、これほど早く届くとは」
萱野の父親である萱野七郎左衛門はすでに隠居したせいか、ひどく老け込んで見えた。今は萱野の兄に家督をゆずっている。
「三文字屋さん、ついでに西側の離れにお寄りください。あそこに隠遁生活を送っているもう一人のせがれがおりましてな。あれは、本を読むことと俳句をひねることくらいしか楽しみがないのです。新しい読本(よみほん)でもあればきっと喜びましょうし、本の話ができる相手がいるだけでずいぶんなぐさめにもなりましょう」
そして、座敷にもどって太平記を置いてくると、障子をしめぎわに幸右衛門に言った。
「それがしはこれから、亡妻の墓参りに出かけます。せがれの用が済めば、好きに門をお通りください」
「お気遣い、いたみいります」
幸右衛門は深々と頭を下げた。出入りの商人を相手にしているにしては、やけに丁寧に話すのは、この老爺が最初から幸右衛門を武士だと見抜いているからだろう。萱野三平を訪ねてきた赤穂浪人だということを、もうせんから見抜いていたのだ。
江戸藩邸を召し上げられ、萱野が実家に戻ったあと、最初にここをおとずれたのは幸右衛門の実兄の大高源吾だった。源吾は山科に住む大石内蔵助と他の元藩士たちとの通信役をつとめていた。
山科で大石内蔵助に会い同志の近況を報告したあと、摂津に寄り俳句仲間だといって萱野に面会した兄はその足で京都の幸右衛門のもとをおとずれた。
「いや、舌を巻くとはこのことだな。萱野三平の父上はすでに我らの密約に気がついておられるようだ」
「仇討ちの件でございますか」
「うむ」
兄は難しい顔で茶をすする。京都藩邸にいた女中たちには暇を出してしまい、今は下男と通いの飯炊き女がいるだけだった。養母お丹がみずから台所に立っていれてくれた茶だった。
「大石様が仇討ちの密約は『親兄弟、夫婦といえども他言無用』と同志に厳しく言いわたしている。茅野がよもやこの計画を父親に洩らしているとは思えないが、萱野の父上がこう言われるのじゃ。『もし大高様ご用の版木屋や読本屋がおありでしたら、どうぞ当家にご紹介ください。隠居が太平記の新装版を欲しがっていたと、ご注文願えませんか』と」
「摂津にもいくらでも版木屋はありましょう」
不審な顔をする幸右衛門に、源吾は声をひそめて言った。
「そうではない。この次に同志がたずねてくるときは、版木屋かなにかだと名乗ってくれ、と言っておられるのだ」
「赤穂浪人ではまずいのですか」
「家督を継いだ兄が、萱野が仇討ちにかかわるのを懸念しているらしい。そういったひそかな計画があるなら今ここで白状しろ、と激しく問い詰められたと萱野自身が話していた」
仇討ちは、彼らにとって主君への最後の奉公であり、武士としての誇りを取り戻すたったひとつの道だった。
「弟が武士として主君への忠誠をまっとうすることが、どうして気に入らないのですか」
源吾は腕組みをして大きくため息をついた。
「仇討ちを盟約している者の中には亡君内匠頭様に同情的な市中の噂話をうのみにして、仇討ちをやりとげれば立派な武士として称えられ、またどこぞの大名に仕官がかなう、などと考えている者もいる。が、我々がやろうとしていることは、将軍家の沙汰を不服とした公儀への謀反ととられてもおかしくないことなのだ」
公儀が許可を出す「親の敵討ち」、「妻敵(めがたき)討ち」とは違う。
「しかし、大願成就ののち腹を切る覚悟はみなできておりましょう」
「いや、それだけではすまない。謀反となれば、親兄弟、親戚まで罪が及ぶやもしれぬ。大石様が身内にも伏せておけ、とおっしゃるのはこれを考えてのことじゃ。まして、萱野家は代々旗本大島伊勢守様に仕える家柄。旗本と言えば将軍家直属の家臣。謀反のきざしあり、としれればすぐに主君へ報告するのが本来のおつとめじゃ」
幸右衛門は頭にかっと血が上った。いきりたって叫んでいた。
「では萱野の兄上は、我が身かわいさに弟の純粋な忠心をねじ曲げようとされておられるのですか」
「そのようなことをかるがるしく言うな。萱野の家にも守らねばならぬものはある」
源吾は苦い顔で幸右衛門を叱咤した。
「萱野に……萱野に会いに行かせてください」
座布団をおりて居ずまいを正すと、必死で畳の上に叩頭した。いたたまれず懇願する幸右衛門の姿に、源吾は最初からこうなることがわかっていた、というように苦笑した。
「わかっている。しかし小野寺のお父上のご意向をきちんとうかがってからじゃ、な」
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