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第15話 【元禄】逢瀬

 萱野が住んでいるという西側の離れへまわると、母屋の中庭とは違った風景が目に入った。軒下に整然と並べて吊されている大根、そのとなりの丸いものはわら縄にヘタの部分を通した柿だ。縁台にひろげたこもの上に大小不ぞろいの豆のさやが干してあるのが見えた。  周囲に人の姿は見えず、母屋の台所のほうから人の声が聞こえ、かまどから白い煙があがっているのが見えた。煮炊きに忙しいころなのだろう。のんびりとした冬の光景だった。  離れの玄関にある戸口の前で声をかけた。 「重実(しげざね)、かわりないか。小野寺幸右衛門だ」 「……秀富」 ややあってから、小さな声が聞こえた。その声をきいただけで、胸を絞られるようなせつない思いがこみあげた。 「秀富」 引き戸が開いて、なつかしい人が姿を見せた。その憔悴しきった様子に一瞬ひるみ、すぐに中に入って後ろ手でもどかしく戸を閉めた。  萱野も、幸右衛門の商人姿に一瞬とまどったようだった。  玄関の土間に明かりとりの窓から、細く陽がさしこむ。その光を縞目に浴びながら、二人は言葉もなくかたく抱き合った。  赤穂城開城の際、藩士は一度国もとの城に集まっていた。その時に二人は一度お互いの姿をみとめた。しかし、当時の状況は混乱を極めていて、ゆっくり話をする余裕すらなかったのだ。  あくまで開城を拒み、城受け取り役や目付役の諸国大名と一戦交えて討ち死にする、という者がいれば、いっそのこと城を枕に藩士全員抗議の切腹をして果てようという者。その一方で、混乱に乗じて勝手に城内の武器を売り払おうとする者や、戦になる前に家財もろとも赤穂から逃げだそうと画策する者も少なくなかった。  意見の相違による一触即発の事態があちこちで起きているのを、大石が中心となって必死でとめなだめしながらなんとか、内匠頭の実弟浅野大学を跡取りとしてお家再興の望みをつなぐことを決め、一方で希望を断たれた際の仇討ちの血判状も作成された。  当時、小野寺の養父十内は藩の重役として大石の補佐役となった。息子の幸右衛門は父の雑用を引き受けて、本丸城内で家老衆の使い走りとして昼夜問わず所用にあたった。  一方、萱野のほうは「松の廊下刃傷事件」の第一報を播州の国もとへ報せる役目を江戸家老からたまわり、紋服のまま早打ち駕籠に乗っていち早く赤穂城に入っていた。  しかし、江戸詰め微禄の萱野はここではずいぶん下位に取り扱われていた。大石内蔵助へ報告をしたあとは、身分の軽い者と一緒に二の丸の大部屋におしこめられた。幸右衛門とは大広間に集まった際に、人波の隙間でちらりと視線をかわすことくらいしかできなかった。  再びまみえたときは何から話そうかと、道すがらずっとそれを考えてきたはずなのに、本人を目の前にすると衝動のまま強く抱きしめる以外に何もできなかった。そして萱野もそんな幸右衛門の身勝手をよろこんでいるように、なされるがままに抱きしめられ自分からも腕をまわして抱き返した。 「遅くなってすまなかった」 「こうして会えただけでいい」 陽の光の中にゆるやかにほこりの舞う玄関で、互いの体温を補充しあうように体を押しつけあう。日だまりのような体臭は江戸での日々を思い起こさせた。手で背中をまさぐって何度でもその存在をたしかめた。  痩せてしまった、と思った。二人とも二十七歳になっていた。萱野の少年らしい繊細さをもった顔付きは、落ち着きとともに男の苦みめいたものをにじませて、それが一層いとおしかった。  やがて激しい衝動がおさまり、腕をゆるめて萱野を解放した。  萱野が「奥へ」と案内する。  正面からまじまじと見ると、萱野は口元にあざを作っていた。月代、髭はきれいに剃っていたものの、髷の髻(もとどり)はほどいて洗髪のあとのように低い位置で一つに結わえている。髷が崩れるほどの何かがあったのだ。 「重実、その顔は」 恥ずかしそうに口元に触れる。 「ああ、兄上とゆうべ口論になった。このところいつものことなのだ。それより、父のせいでそんな格好をさせて申し訳ない」 兄をこれ以上刺激しないようにという、父親の配慮だったのだろう。 「その兄上様はこちらのお屋敷においでなのか?」 「いや、大島様の長崎御遊学の準備で今日は陣屋泊まりだ」 幸右衛門は内心安堵した。とってつけたような変装だ。自分が商人になりきれているとは思えない。歩き方ひとつとっても少し前まで刀を差していたことは、見る者が見ればすぐにわかるだろう。赤穂の浪人が人目をあざむいて萱野に会いに来たことが兄の耳に入れば、また萱野への怒りと暴力につながらないとも限らない。 「殴られているのか」 「しかたがない。お家の大事になるやも、と兄上は案じておられる。おれはいっそのこと親子兄弟の縁を切ってほしいと申し出ているのだが……」 秀富が来るとわかっていたら髪結いを呼んでおいたのだがな、と情けなさそうにちょっと耳にかかる髪を後ろへやり、やがて表情を厳しくした。 「いや、そうは言っても身を寄せることのできる身内がいるだけ、おれはめぐまれている。苦しい浪人生活を強いられている同志もたくさんいるだろう。京でも江戸でも」 「ああ」 幸右衛門はため息のような返答を返し、玄関をあがって荷をほどいた。 「京のみやげに干菓子を買ってきた」 木枠をはめて本を詰めた背中の風呂敷包みの隙間から、薄い木箱をとりだした。  流水文様のらくがんに小菊や紅葉をかたどった色とりどりの和三盆糖が詰められていた。 のぞきこんだ萱野がほう、と感嘆の声をあげた。 「竜田川か、美しい」 茶を点てよう、と火鉢に茶釜をかける準備をはじめた。  萱野のやつれた面差しを見た時に、女子供でもあるまいし菓子などではなく生卵でも求めてきて吸わせてやればよかった、と幸右衛門は後悔していた。しかし萱野が嬉しそうに笑うのを見ると、それだけで足の裏がくすぐったくなってくるようなこそばゆい気持ちになった。長い間忘れていた、うきたつ気持ちだった。  土埃のついた手甲と脚絆をわらじとともに玄関先で脱ぎ、三畳ほどの小間を抜けて八畳の居室まで進んだ。  萱野はひとりで略式の盆手前の準備を手際よくすませていた。 「誰もいないのだ。今日は使用人総出で母屋の台所で餡入り餅を作っていて」 「餡入り餅?」 「年末のすす払いの最後に祝儀として家中の全員にふるまうことになっている。つきたての餅が柔らかいうちに、餡を包まねばならぬらしい」 世の中は正月の準備に忙しいのだ。 「幸右衛門も疲れが見える。何かあったか?」 茶巾で楽茶碗の底をふきあげ、ちらりと幸右衛門に目線を投げる。 「……高田群兵衛(たかだ ぐんべえ)殿が脱盟した」 「まさか」 高田群兵衛は藩一番の槍の使い手で藩の武術指南役でもあった。大柄で男ぶりもよく、年に一度、藩士を紅白組にわけて行う御前試合の時は、江戸詰め組の大将として腕をふるった。 「その御前試合の時だそうだ。親戚筋にあたる娘御が群兵衛殿を見そめて惚れてしまったらしい。浪人となってからは、あれこれ手厚く身のまわりの世話をして『婿として養子に来て欲しい』と、かきくどいていたという話だ」 「そもそも鼻息荒く仇討ちを唱えたのは群兵衛殿ではないか。そんな誘いにのって我らの誓いを破ったのか?」 「その娘御が懐妊したそうだ」 萱野はあっけにとられたようで、そのまま片手に茶杓をにぎってかたまっていた。 「それで心が揺れてしまったのだろう。仇討ちの計画を相手の親に打ち明けてしまった。群兵衛殿としては、自分はやがて死にゆく身なのだと告白したのだろうが、娘の親御殿は反対にそれを公儀に訴え出る、と言って群兵衛殿を脅したらしい」 「それで脱盟か」 「仇討ちの計画を守るためだとか、ほざいた」 「江戸の同志はそれで納得したのか」 幸右衛門は力なく首を振った。 「そんなわけはない。剣術指南役の堀部安兵衛殿がいきなり刀をぬきはらって、『おれが今からそのふしだらな娘を腹の子もろとも叩き斬ってくる』といきどおるのを、三人がかり、四人がかりでとりおさえて大騒ぎだったそうだ」 「江戸詰めの馬廻り役はみな男らしくてたのもしい好漢ばかりだった」 ぽつり、と萱野が言う。戸の向こうで、さあっと冬の風が木々の梢を鳴らす音がした。 「同胞におなごができて、子どもまで身ごもって、婿養子の話まで進んで……こんなにめでたいことはないのに……そのおなごごと腹の子まで斬ってやると、仲間内で争わねばならぬのか……」 萱野はいつもおだやかな声を怒りに震わせた。 「……あの松の廊下事件でなにもか、変わってしまった。……吉良が憎い。殿に刀を抜かせた吉良が憎い」 しゅんしゅん、と茶釜の蓋から蒸気が漏れ、その音で我に返った萱野が茶をたてはじめた。  さやさやと、茶筅が茶碗の内側を撫でる音がして、やがて幸右衛門の前に茶碗がさしだされた。黒い釉薬がまだらに掛かった、ぽってりと厚みある茶碗だった。  ゆっくりと一服した。  飲み口を指でぬぐい、そっと茶碗を畳の上に戻した。作法にならって鑑賞するように顔を伏せ、幸右衛門はつぶやいた。 「おれも迷っていた。みな苦しい選択をした。将来を悲観し、妻の腹の子を堕ろさせた同志もいる。なのに、萱野に会いたいといつまでも女々しく焦れていていいのか、と」 横向きに正座したまま、茶碗を下げようとさしだした萱野の手がぴくりと止まった。 「小野寺の父がたずねるのだ。『お前は思い残すことはないのか』と」 幸右衛門は膝立ちになった。みずから茶椀を茶釜のそばに下げると、いまださしだされたままの萱野の手を強くにぎった。 「だから来た」 萱野に驚くいとまも与えずに、強引に引き寄せて畳の上に押し倒した。 「すまない。おれはお前に嘘をついた。――欲しかった。本当は重実の全てが欲しかった。結局その嘘も最後までつききれないのが、おれだ」 叩きつけるように言うと、暴漢のような激しさで着物の襟をひろげ、帯を抜きとった。 「すまない」 馬乗りになり苦しく謝罪の言葉を吐く幸右衛門の唇を、細い指がいとしげに撫でた。 「知っている。それが秀富なのだろう? わかりにくくて、本当はひどくやさしい、おれの秀富だ」 萱野は少しかすれるほどの小さな声でささやく。  これえきれなくなって、覆いかぶさり唇を重ねた。唇を吸って、その奥で舌をからめあって、激しく求めた。耳朶も、首筋も、何度も唇でふれて、熱い息を吹きかけた。そのたびに、半裸になった萱野の体はくねり、吐息をはずませる。 「寒いか?」 たずねると、もっとあたためてくれ、と言うようにさらに首に腕を巻いてくる。彼もこの逢瀬を待ち望んでいたのだと確信すると、体の奥で何かがはじけとんだ。 「怖かった。自分の奥に獣がいるような気がするのだ。誰かと抱き合ってこんな気持ちになるのは初めてだった――――」

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