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第18話 【平成】原始人の恋

「そういえばお前、先月二十歳になったよな」  洗面所に向かう準備をしながら津和野に問う。毎朝かならず寝癖がついている後輩は、まだ眠たそうな顔でぼんやりフェイスタオルを首からかけている。 「あ、はい。成人っすよ。そりゃもう暴れますよ」 「今週の練習試合何本入ってる?」 「N大戦ですよね。四十分二本です」 「じゃ、その二本とおしで、バックスのトライ決定率八十五パーセントキープできたら女おごってやるよ」  ぱちっ。音のしそうな勢いで津和野の目が見開かれた。 「まじっすか。それって伝説のフーゾクゴチっすか」 「伝説じゃねえよ」  先輩が後輩を連れて歩く時は、決して財布を出させないのがここでの鉄則だった。目上が常におごる。 「いつもおごってもらって申し訳ないのでたまには出させてください」  などと後輩がしおらしいことを言い出したら、 「いいんだ。俺らも上の人に面倒みてもらってきたし、その気持ちはお前の下に後輩が入ってきた時に、同じように可愛がってやることで返してくれ」  と、余裕の笑顔で言えるようでなければ、人の上に立つ男とは認めてもらえない世界だった。  おごるのは食事だけではない。慢性的に不自由している女についても「風俗ゴチ」と呼ばれるおごりの風習があった。直属の後輩がいつまでも童貞なのは先輩の責任を問われる事態だ。  二人で部屋を出て、共同の洗面所に歩いていく。 「あれっすよね。ヘルスじゃなくてソープっすよね。本番していいほうですよねっ」  津和野は目をきらきら、というよりぎらぎら輝かせて、朝の清らかな空気にふさわしくない言葉を大声で連呼する。  げんきんな態度に小野寺は苦笑した。 「お前な、ちゃんときいてたか? トライ決定率八十五パーセントキープできたらだぞ。ま、津和野がそこまで育てば、俺は安心してベンチにさがれるな」  洗面道具を抱えたまま、津和野は急に立ち止まった。お腹が痛くなった子供みたいな顔をしている。 「……小野寺さん、んな、さびしいこと言わんでくださいよ」  こぼした言葉は関西独特のなまりが混じっていた。  津和野の実家は兵庫だ。小学生を卒業して千葉の中高一貫私立校にスポーツ推薦で入学した。その時から実家を離れて寮生活だった。きっとそのころに周囲にからかわれないよう関西弁は封印してしまったのだろう。普段は違和感のない東京弁をしゃべる。それが、時々ひどく感情的になると隠しきれないなまりが混じるのだ。 「俺……俺、小野寺さんが目標なんで。もっと俺のずっと先を走っててくださいよ」  小野寺はふりかえった。津和野は心細そうな顔をして見上げている。 「津和野、お前十四番のジャージ背負って公式戦出たくねえのか?」 「そりゃ……俺ら二年は集まりゃ、俺たちの代はどんなラグビーやるかってそんな話しかしませんけど。それは俺らが三年、四年になった時の話をしてるんすよ。それまでは、上の人たちに強い修教守っててほしいっす」  ああ、こいつらの目も節穴じゃないんだな、と小野寺は感慨深く思った。自分たちの実力を本当は理解している。そして、個人の成功よりも全体を優先させ、その中でわかちあう喜びをよく知っている。小野寺が説教するまでもなく、ちゃんと彼らはチームを支える選手に育っている。 (お前はいつか俺に追いつくだろう。でも俺の膝はそれを待っていてはくれないみたいだ)  弱気な言葉を口には出せず、黙って空いている洗面台に向かう。いつもどおりの動作で備え付けのガラスのコップを手にとって水をくみ、口元に持っていった。  ぱちん、と手の中で何かがはじける感触があって、次の瞬間、小野寺のTシャツの前はびっしょり濡れていた。同時にコップを握っていた右の手の平に鋭い痛みが走る。ぱた、ぱた、とステンレスのシンクに赤い血が落ちた。 「なにやってんの、小野寺」  隣にいた三年の一人が驚いてあとずさった。 「なに?」 「こいつ、コップ握りつぶした」 「嘘だろ」 「どうなってんだよ、ラグビー部は」  ざわざわしはじめる。 「小野寺さん、顎のとこ、血が出てます」  あわてて津和野も走り寄ってきた。小野寺はぼう然としたまま、右手にのこった粉々の破片をシンクに落とした。タオルで右手と顎を拭くと、タオルがまだらに血に染まる。 「そのコップ強化ガラスだろ? 時々あんだよ」  廊下側から動じない声を投げてきたのは、ラグビー部副将の近藤だ。 「小野寺、災難だったな。医務室行ってこい。まあ、そのくらいだったら縫うハメにはなんねえだろ」  のんびり言った。 「強化ガラスって、完全に割れないわけじゃないねえんだよ。ダメージくらっても割れないけど、そん時に目に見えない細かいヒビが入ってんだよ。それが蓄積して限界越えるとある日、触れただけでパーン、ってな」  今日はついてねえな、とややうんざりして小野寺は右手をタオルでおさえた。軽く止血だ。血を拭いてよく見ると、人差し指の腹と親指の付け根が少し切れているだけだった。顎の傷もほとんど痛まないから、たいしたことはないだろう。  小野寺はちらりとシンクに目をおとした。コップの残骸は元のかたちがわからないほど見事に粉々だった。おはじきにもならなさそうな小さな破片と破片との境界を、小野寺の血液が走るようにしみわたっていく。  さっきまで傷一つ見えなかったコップは、よほどたくさんのヒビを背負っていたのだろう。 「すみません、食事の時間遅れます」  近藤に一礼して、小野寺は右手をタオルに包んだまま医務室へ向かった。 「こっちは片付けしときますんでー」  と叫ぶ津和野の声は、すでにいつもの脳天気なトーンに戻っていた。  「何か用すか」  小野寺がミーティングルームの扉を開けると、高々と足を組んで煙草をふかす曽我以外誰もいなかった。  風呂上がりに「曽我さんが話があるそうです」と後輩が呼びに来た。いぶかしみながら来てみるとこれだ。曽我があえて他の連中をおいはらったのだろう。  個人面談かよ、と内心でつっこみながらも扉を閉め、素直に曽我の前に立った。 「相変わらず、愛想ないねー小野寺ちゃん。ガラスのコップ握りつぶし事件、きいたよ」  曽我はにんまり笑った。面白がっている。 「だから、あれは近藤さんが言ったとおり、誰が触ってもぶっ壊れるコップだったんですよ」 「でも、一、二年はすっげーびびっちゃって、『うちの部にはガラスのコップを片手で握り潰す先輩がいる』って学校でふれまわってるらしいよ」 「どんな部なんすか」  あきれていると、座れば、とうながされた。手近な椅子を引き寄せて、曽我の正面に座った。  腰を下ろした途端に目の前の机にぽん、と投げ出されたのは七色に光る銀色の円盤だった。その表面に書いてあるタイトルは、ゲイ向けのアダルトビデオであるらしかった。  小野寺は眉をひそめて、真意をさぐるように曽我の顔を見た。 「うちの卒業生が出てる。明るみに出たらスキャンダルかも」 「なにが言いたいんすか」 「俺が沈めちゃったんだよね、こいつ」  鼻梁を横切る大きな傷跡をうごめかして、サディスティックに笑った。 「可愛がってやったのにさ」  この人は自分が両刀だと告白しているのだろうか、と小野寺は思った。 「俺が現役だったころにさ、慕ってくれた後輩がいて、卒業してからもいろいろ面倒みてやったんだよね。でもそいつは俺がそっち方面に顔がきくって知って、消費者金融から金引き出して遊びまくりやがって。いざ追い立て(取り立て)くらったら、泣きついてきやがって。……こいつはゲス。俺を利用してただけのゲスなんだよ。そういう奴には、俺もちゃんとゲスとしての対応してやるの」  喉を鳴らして笑う。足を組みなおして斜に構えたまま、小野寺に顔を近づけた。 「で、小野寺ちゃんさ、どうすんの。お前のとこに来てる法学部、あれはモノホンの上玉だよ。お前いつまで逃げまわるつもりなの?」  声をひそめる。  小野寺は目を見開いた。 「か、茅野を知ってるんすか」  曽我はまた面白そうにくくっと笑った。 「ああーこりゃ、ほんとに知らないんだな」 「なんのことですか」  曽我の態度がだんだん不愉快になってきて、問いただすような口調になっていた。 「かやのくんていうの? お育ちの良さそうな世間知らずの純粋くんだよね。あの子、お前がいない時たまに寮に来てるの、知らない?」 「え?」 「でかいリュックしょって、玄関でうろうろしてんだよね。で、なにか用ですかって誰かが声かけると、『突然休講になったんで来てみたんですけど、小野寺君いますか』ってきくんだよね。で、居ないよっていうと、『それじゃ、いいんです』って。『負担になりたくないから、僕がここに来たことは黙っててください。お願いします』って、一生懸命口止めして帰るらしいよ。けなげだよね」  小野寺は言葉を失った。野球部の南条が気にしていたのはこれだったのか。自分がいない間に茅野が寮にあらわれて所在なくうろうろすることを心配していたのだろうか。 「お前らさあ、原始人なの?」  曽我が煽るような大声をあげた。 「携帯持ってんだろ。なんで連絡しないの? それともバカなの? 『今日会える?』ってメールしたらどうかなっちゃうとか思ってるわけ? なんなんだよ、この茶番は。間にはさまってる寮生たちの身にもなれっての!」  ということは、南条も他の寮生たちも、それを知っていて茅野の頼みどおり小野寺には内緒にしてきたのだ。 (ほんとにまあ、あんたたちも、そろいもそろって相当のお人好しですね)  小野寺はひそかに苦笑した。 「もうつまんねー意地の張り合いとか、見苦しいんだよ。とっととデキろ。そりゃ今の社会じゃいろいろあんだろうけど。こっちももどかしくってやってられねんだよ」 「そういう曽我さんはどうなんすか」  小野寺はまわりに他の部員がいないのを幸い、挑戦的な目で曽我をにらんだ。 「なんの話だ?」 「とっとと葛城にぶちこんでやってくださいよ。俺だって同期としてあいつがこじらせてるの見てられねえんですよ」 「は? お前な、俺が現役に手エ出すような節操なしに見えんのか」 「葛城は、ゲスじゃありません。あんたに本気ですよ」 「うるせー、うるせー。あいつは去年、腰痛がって一年間棒にふったんだぞ。やっと一本目に復帰してしっぽ振って喜んでるのに。そんな奴の尻なんか狙えるか、くそっ」  曽我は痛いところをつかれたのか、目をそらせて吐きすてた。  結局俺たちは似たもの同士じゃねえか、心のうちで小野寺は毒づく。 「茅野のことで俺が思ってたより周囲に気イ使わせてたのは謝ります。でも、茅野をここで寝かせることは許可してください。じゃないとあいつ……」 「お前はさ、どうしたいの?」 「俺は……このままがいいんです」 「相手は必死なのに、卑怯だな」 「あんたはあいつのなにを知ってんすか」  小野寺は変に息苦しくなって、曽我をにらんだ。 「知ってるよ。この前、玄関でちょこっとお話したもーん」  気持ち悪く唇をとがらせると、曽我は余裕の態度ででちらりと小野寺の反応を見る。 「お前のことどう思ってるのか知りたくてちょっと試すようなこと言ってみたら、案の定だよ。あの子さ、なよっちくみえて、お前のためならなんでもやるな。すげー惚れられてんじゃん。お前も憎からず思ってんだろ? お前さ、あんだけ真剣に想ってくれてる相手に、なんで膝のことちゃんと話さねえの?」  あんたに言えたことかよ、叫びたい気持ちをぐっとこらえた。 「俺は卑怯でいいんです。卑怯でも、今を生きのびることに意味があるんですよ」  自分でも思わぬ言葉が出た。曽我が一瞬、ぽかんとする。 「生き延びる? なにそれ、意味わかんねーんだけど。つきあったら死んじゃうって思ってんの?」  ほんとよくわかんねえよなお前たち、曽我は馬鹿にするように小さく肩をすくめた。 「俺達のことはほっといてください。だいたい……あんたはなんでそんな余計なことしてくれるんすか!」  曽我は、ふっ、とため息混じりに笑った。それは今まで見たことのない、自嘲するような笑い方だった。 「……結局、俺にはこれしかできねえからなあ。顔に一撃くらって一線を退いたくせに、まだラグビーに関わりたい、なんて未練たらたらの俺にはさ。お前らが悔いなく活躍できるように裏でできる限りのお膳立てすることくらいしかしてやれねえからな。現役に腰痛い、膝痛いって言われたって、俺がかわってやるわけにもいかねえし」  ここで選手の私生活に密着して関わっているのは、彼なりの後方支援なのだ。そしてそれは時に自分が無力であることを痛感することでもあるのかもしれない。 「小野寺、実際のところ『全力でやりきって真っ白な灰になって燃えつきる』なんてカッコイイ終わり方ができるのは漫画の中だけなんだぜ。みんな後悔と未練にまみれて、それでもみっともなくあがきながらリザーブから二本目、三本目にさがっていくんだ。あるいは、俺や主務の長谷川みたいに裏方へまわる。お前は違うだろ。まだやれる可能性あんだろ」  いつもふざけた態度の曽我がらしくなく熱っぽく言う。 「うちの有望な選手であるお前を前向きにさせるためなら、俺はなんでも利用させてもらう。茅野君、お前のプレーに勇気づけられたって話してたぜ。……今度はお前が支えてもらえばいいじゃねえか」  小野寺は机の下で拳を握りしめてうつむいた。

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