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第19話 【平成】想いの決壊

 小野寺と茅野が出逢ったのは高校三年生の時だった。 「小野寺君はすごいんだね。僕はラグビーは全然わからないんだけど、この冬休みは小野寺君の試合ずっと見てた」  冷たい風の吹くグラウンド脇の通路で。茅野は女子に混じってずっと練習をみつめ、小野寺が通りがかるのを待っていた。紺色のピーコート姿で、寒風に鼻先を赤く染めてタータンチェックのマフラーにあごの先をうずめて恥ずかしそうに微笑んだ。  その姿を見た時に、小野寺は締めつけられるように胸の奥が痛んだ。  やっと彼をみつけた、と思った。大事な目的を達成したような安堵感がわきあがった。嬉しいのにどこか恐れを含んだ、言葉にできない不思議な気持ちだった。 「気持ち悪りいから君とかつけんな」  動揺を気取られないよう小野寺がそっけなく返すと、茅野はまったくこたえた様子もなく嬉しげに語りだした。 「あれすごかったね。K高戦の時、後半はじまってすぐのピンチの時。一撃必殺で相手の足を取りに行ったサバ折りタックル。突進してきてた相手のナンバーエイトすごい巨漢だし、どうなっちゃうのかドキドキした。でも小野寺は、自分より大きい相手に全然スピード落とさずにまっすぐ向かっていくんだ。なんかもう悲壮っていうくらいカッコよかった。あと、あれ。O工業戦の時、残り時間三分からの逆転トライ。何度もぶつかって、密集作って、またボール出して、パスまわして。チームのみんな必死だったね。途中からポジションとかもう全然関係なくなって、ただひたすら人がわき出てくるようだった。ぶつかって、倒れて、起きあがって、また走って。何度でも、何度でも。道が開けるまで当たり続けた」  茅野は両手を胸の前でにぎりしめて語る。興奮して、白磁のようだった頬には見る間に血の気が差してきた。 「僕は、小野寺が何度倒されてもあきらめずに起き上がってまた走り出すの見ると、うれしくて泣きそうだった。ラグビーのパスはみんな自分より後ろに投げるけど、みんな小野寺に投げる時は一度もふりかえらない。絶対とってくれるって信頼して放るんだ。それを見るといつもすごく感動した。だから――これからも、小野寺を見ていたい」  そこまで言って急に真顔になり、真っ赤になってうつむく顔を見ると、自制心が揺らぐほどの愛おしさを感じた。  守ってやる。小野寺はそう決意した。  今度こそ、ひとりぼっちで旅立たせたりはしない。  寮の部屋で茅野と向かいあう。今日の茅野は眠ってはいない。緊張にはりつめた面持ちだ。  津和野はそうそうに筋トレルームへ退散してしまった。小野寺と茅野は勉強机と対になっているキャスター付きの椅子に座っていた。 「大事な話って?」  小野寺は食事の帰りに買ってきた炭酸飲料を机の上に置いた。無尽蔵に小さな泡を作り出す褐色の液体が、ペットボトルの中で不安定に揺れた。  机の上には昨夜やっていた書きかけのレポート用紙が広げられたままになっていた。シャープペンシルが転がっている。壁際には高校時代に花園大会に出場した時の集合写真がフレームに入れて飾ってあった。みんな誇らしげな笑顔だ。ファンだという子がくれたラグビーボールのミニチュアがついたストラップや、女子マネージャーたちが手作りしたマスコットもあった。修教のジャージカラーである青と白、そして小野寺の背番号である十四番を模したものだ。それらはなんとなく捨てられなくて机の一隅にごちゃっとまとめてある。  茅野が小野寺の方に体を向け、ひどくあらたまった様子で話しだした。 「この前、臨時休講の時に、ひょっとして小野寺に会えるかもって思って僕ここへ来たんだ」  背筋をのばし、膝の上で両手をお祈りするように組み合わせて、必死で自分を勇気づけているようだった。 「その時に、あの、バックスのコーチの人と話をしたんだけど」 「コーチって、曽我さんか?」 「名前はわかんなくて、あの、鼻の上の方に大きな傷跡がある、ちょっとワニっぽい感じの」  小野寺は確信した。ワニっぽい感じ、は曽我の目つきが悪いのを茅野なりに優しく表現したのだろう。 「あ、あの、小野寺……本当は膝を痛めてるんだろ。それって、もう半月板の軟骨がすりへってて、安静にしてても治らないんだろ? 。それで、小野寺は半月板と軟骨の移植手術を待ってるんだって聞いたんだけど」  小野寺は思わず茅野の顔をまじまじと見た。なにか話がおかしい。それでも真剣に話し続ける彼の言葉を最後まできこうと、とりあえず沈黙を守った。 「僕の、僕の半月板を……移植に使ってほしいんだ。僕……小野寺と体格は違うけど、問題は骨格なんだし。血液型も一緒だし。僕は今まで学校の体育でしかまともに走ったこともないから、きっと軟骨もほとんどすりへってないと思うんだ」 「茅野?」  突然、きっ、と茅野が目線をあげた。いつもは凪いだ湖のようなおだやかなまなざしが、小野寺をにらむような強い目つきに変わっていた。急に居直ったような、変に強さを感じさせる顔だった。 「小野寺、黙って僕の膝の骨を受け取ってほしいんだ。だって僕は、今までずっと小野寺に甘えてきて、支えてもらって、なのになにも返せてないんだ。だからせめて、僕にできることをしたいと思ったんだ」 「お前……本気でそんな覚悟してきたのか?」  こくん、とうなずいた。さら、と前髪が揺れる。 「リスク、考えてみたのか? お前の膝から軟骨がなくなったら。今度はお前が苦しむんだぞ。膝が炎症起こして腫れあがったり、水が溜まって痛んだりするんだぞ。杖ついて歩かなくちゃならなくなるかもしれないんだぞ。それでいいのか。いいわけないだろ」 「いいんだよ。僕はそうなりたいんだ」 「そんなこと簡単に言うなよ。自分の体を傷つけることなんだぞ」  小野寺は立ち上がるといきなりかがんで茅野の右足をぐい、と持ち上げた。足をとられた茅野は体勢を崩しかけて、あわてて両の肘掛けにつかまる。小野寺はかまわずズボンの裾をまくりあげて白い脛、さらに膝まで露出させた。膝小僧の丸い突起を指でL字になぞる。 「いいか? ここにこんなふうにざっくりメスいれるんだぞ。健康な体に、こんなふうに大きな傷跡が残るんだぞ。いいのか?」  ことさら脅すように言って、茅野を追いつめる。なのに、茅野のほうはまるでなにもかも見通していたようにおだやかだ。 「うん。いいんだ。だってその傷跡は、小野寺とおそろいになるんだろ」  迷わず答えた。小野寺はぼう然となって茅野の足をはなした。彼は――彼はそこまで自分を想っていてくれたのか。 「小野寺、長い間そばにいさせてくれてありがとう。家族の顔色うかがって自分に嘘ついてばっかりの僕の人生の中で、小野寺と一緒にいる時間だけは安心してご飯も食べられたし、眠ることもできた。ずっと、子供みたいに甘えさせてくれてありがとう。これだけしつこく一緒にいても、これ以上親密になれないってことは、たぶん小野寺の気持ちがただの友情と同情なんだってもう僕もわかってるんだ。だから、困らせないように言わないでおこうと思ってた。だけど……膝のことを聞いたから。僕はどうしても半月板を提供したいって思ったんだ」  茅野は眉根をぎゅっと寄せたまま、へたくそに笑った。 「本当はお礼なんかじゃなくて、ただの僕の自己満足かもしれない。でも、この体に傷跡が残るなら、それは僕にとって一生に一度だけ、本当の恋をした証(あかし)になる」  茅野は一度大きく息を吸った。一生懸命微笑んで、それでも握りしめた両手を震わせながら言った。 「僕は、小野寺が好きだ」  小野寺は鋭いもので、肉をえぐられたような痛みを感じた。 (――ああ、とうとうこの言葉を聞いてしまった)  ずっと自制してきたのに、とうとう彼から踏みこんできてしまった。  静まりかえった部屋で、茅野が泣きそうにうわずった声を絞る。 「友情じゃないんだ。僕のは恋なんだ。たぶんもう他の人を好きにはなれないくらいの重症なんだ。たとえ小野寺に半月板をあげて僕の膝が痛んでも、それは小野寺が味わうはずだった苦しみを僕がほんの少し肩代わりしてあげてるってことなんだ。きっと僕は膝が痛むたびに小野寺を想って幸せな気持ちになる。小野寺の苦しみを今、僕がかわりに背負えてるって思うだろう」 「茅野」  ふるふると茅野の瞳の表面が波打つ。透明な滴が下まぶたにふくれあがっていく。 「小野寺、困らせて、ごめんね。でも、膝の骨だけは受け取ってほしい」  涙が堰をきって頬をつたう。  小野寺は途方に暮れた。思わず立ち上がって、茅野の頬をつたう涙を人差し指の背ですくいあげた。右をすくうと、左からこぼれ、きりがない。仕方なくなって、静かに泣く茅野の頭を胸におしつけ、抱きかかえていた。不規則な熱い吐息が小野寺の服に染みて、茅野が秘めてきた情熱を伝える。  少し落ち着くのを待って、小野寺はゆっくり話しだした。 「茅野、落ち着いてきいてくれ。――それな、曽我さんの嘘だ」 「え?」  腕の中で茅野の背中が、ぴくっとこわばった。 「俺が膝をいためてるのは本当だ。でも、半月板を健康な生体から移植するなんていう手術はない。俺が今ドクターから薦められているのは、ぼろぼろになった半月板を人工半月板と置き換える手術だ。この手術は今まで、関節炎を患う年配の患者向けに開発されてきた。だから、術後激しい運動をすることは考慮されていないし、アスリートとして復帰した前例がないんだ。それをやってみようかって話なんだ」  手術には一週間ほど入院することになる。その後のリハビリには約一ヶ月かかると説明された。  何年もかけてタフな肉体をビルドアップしたアスリートでも、一週間もベッドの上にいたらあっという間に筋肉は落ちる。リハビリが終わることには、小野寺はただの一般人だ。もう茅野が胸を焦がした力強いラグビー選手ではなくなってしまっている。その時はもはや茅野を精神的に支えてやることもできないだろう。 「お前が聞いた移植とかって話はな、曽我さんが作り話をして、お前が俺をどう思ってるか試したんだよ」 「あ……あ……」  茅野が両手を口にあてた。これ以上はないほど目を見開いている。 「俺がいつまでも手術を受けることを決断できずにいるから、お前をけしかけたんだろ」  茅野の体が小刻みに震えだした。 「僕……僕……なに言っちゃったんだろ。結局、なんにもできないのに」  茅野が頭を抱える。くしゃ、と自分の両手で髪をかきむしった。 「好きなんて言って……もう、無理だよね? 小野寺のベッドで寝るなんて気持ち悪いよね。ここにきて甘えちゃだめだよね」  は、は、は、と茅野がまるで心が壊れてしまったようにうすら笑いをもらした。 「茅野」  小野寺は椅子に座った茅野の正面からもう一度、細い体を抱きしめた。  小野寺の腕も震えていた。怖くて仕方がなかった。茅野が傷ついてしまうのが。絶望してしまうのが。 「もう……僕たちの友人ごっこもおしまいだよね。気持ち悪いよね。ホモなんて」  自虐的に言って、茅野は小野寺の腕をふりはらった。 「茅野」 「ごめんね。僕なんにもしてあげられなくて」  赤くなった眼をぐい、とセーターの袖でぬぐって床に置いたデイパックを拾いあげると、扉を開けて走り出ていった。  開きっぱなしになった扉の向こうでは、廊下にいた寮生があっけにとられた顔でばたばた走って行く茅野の背中を見送っていた。

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