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第20話 【平成】乱闘

 「曽我ああああっ」  寮の廊下にドスのきいた怨嗟の声が響いた。  普段冷静な小野寺が額に血管を立てて激怒しているのを見て、廊下にいた寮生たちは息を殺して道を開ける。 「いるんだろ、出てこい曽我あっ」  小野寺は大股に歩いて、ミーティングルームのドアを蹴り開けた。勢いあまって壁にはねかえったドアが、ばあん、と大きな音をたてる。 「おーおー、やっと目が覚めたって顔だな」  曽我は嬉しげに笑って、首を左右に振ってこきこき鳴らした。曽我のまわりに集まっていたラグビー部の後輩たちが、目を丸くして対峙する二人をかわるがわる見ている。 「なにしてくれてんだよ」  椅子にかけてふんぞりかえっていたの曽我の襟首をつかんで立たせた。 「お前って、自分のことはなんも見えてねえのな。今自分が、ダメになるかならないかの瀬戸際にいるの、わかってんのかよ」  曽我は小野寺の鼻の先でせせら笑っている。鋭く細められた目はまるで、現役時代を思い出したかのように好戦的でいきいきと燃えたっていた。 「は? ……ダメになる? 俺がか?」 「いつまでも自分殺して善人ぶって。そんな自分が偉いとでも思ってんの?」  やれやれ、と言いたげな顔で曽我が煽る。 「さっさとこいよ、今さらひっこみつかねえだろ?」  曽我の一言が導火線を焼き切った。最初の一発は小野寺からだった。  殴りとばされた曽我の体が後ろの椅子にあたり、椅子もろとも後ろにさがった。周囲のテーブルや椅子が、ドミノ倒しのように倒れて片側に寄った。  ガタガタと派手な音が部屋中に反響する。遠巻きに見ていた部員の輪が乱闘にけおされて外側に広がった。 「ケンカだ」 「誰か呼んでこい」  緊迫した声が飛びかう。 「曽我さんっ」  葛城が悲痛な声をあげて、二人の間に割って入ろうとした。 「待て待て、誰も呼ぶんじゃねえよ」  床に転がった曽我がゆっくり起きあがった。口の端をちょっと指先でぬぐう。立ちあがって優雅に上着を脱ぐと葛城にほうった。 「葛城も、他の誰も手エ出すな。――これは俺の仕事だ」  ぎらり、とまた瞳を輝かせる。射すくめられたように葛城と他の後輩たちは動けなくなった。  小野寺はすぐに間合いをつめて今度は左の拳を伸ばす。が、それは曽我の右腕にはじかれ、代わりに左の脇腹に鉄のような一撃が入った。  ぐっ、と声がもれ、がくん、と膝が勝手に折れた。息をつめて吐き気をこらえる。 「あっと、膝はやべえか」  今度は曽我が襟首をつかんで、小野寺を立たせた。 「ぶざまだよ、お前。自分が強いってうぬぼれてる奴ほど、自分の弱さとは向きあえねえもんだよなあ? 小野寺、あのコップみたいに、見えないヒビでいっぱいになって今にも壊れそうなのは誰だよ?」 「くっそ」  小野寺は襟首をつかんでいる曽我の手をふりはらった。体勢をたせなおそうとすると、すかさず左からの一発を顔面にくらう。今度は小野寺が派手に吹っ飛んだ。椅子をなぎ倒しながら、床に倒れこむ。  視界に星が飛んだ。しかしこんな衝撃は試合で慣れっこだ。ぱっと反射的に起き上がると、ひるまず一歩踏み込み、曽我のあいた右側の頬にやりかえしてやった。  殴る。殴り返される。何度も何度も。  小野寺は顔と腹、そして拳が壊れるような痛みを感じながらしびれる頭のはじで考えた。  どうしてもっとうまく生きられないのだろう。  でもどうしようもないのだ。うまく泣くことのできない自分には、きっとこんな弱音の吐き出し方しかないのだ。  今生こそ、俺は間違えない。  そう思っていた。  茅野と出会えた時から。  今度こそ、つないだ手をはなさない。  ひとりぼっちでさびしく死なせたりはしない。  茅野を守って、支えて。あの時過ごせなかった二人だけの優しい平穏な日々を送ろうと。  ――もう、思い残すことはなにもない。  あの一言を言わせてはならない。  あの病むほどに孤独な魂を愛で満たしてはならない。死に急がせてはいけない。  どんなに愛おしくても。胸をかきむしりたくなるほどその肌が恋しくても。彼がそれを望んで誘ってきても――体は重ねない。  全てを与えることはせずに、新しい命にすがりついて長らえさせるのだ。  だから、抱けなくてもいい。ただ静かに、二人で生きられなかったおだやかな時間をもう一度過ごしたい。  そう思っていたのに。  それはただ、自分がつまらない意地を張っていただけだったのだろうか。  鼻血が口の中まで流れこんでくる。口の中が鉄さびの匂いでいっぱいになる。相当打ち込まれてふらふらになりながら、まだ小野寺は立っていた。もう視界がかすんできている。 「強情だなあ」  髪を乱れさせて、左側の唇を少し切った曽我が片頬をひきあげて笑った。服装は崩れていたが、表情にはまだ余裕が見える。 「暴れて少しは気がすんだかよ」  浅くため息をついて、また頭を振り、こきこきと首をならした。  自分でさんざん殴ったくせに、やけに痛々しげな目で小野寺をみつめていた。 「……可哀想なほど不器用なんだよな。ま、でもそういう強がり、俺は嫌いじゃないぜ。男なんてやせ我慢してナンボだもんなあ」  小野寺は、ふら、と体勢をくずし後ろに尻をついた。  倒れていた机の天板に背中をもたれかからせる。身体中のあちこちが熱をもって、ずきずき脈打っている。もう指一本動かす闘志もなくなって、力なく天井をあおいだ。 「誰か、小野寺に水かけてやれ」  曽我の声がした。おそるおそる誰かが近寄ってくる足音がかすかに聞こえた。ペットボトルの蓋を開ける音がして、額から冷たい水が浴びせられた。  冷えた水は熱をもつ打撲痕にひどく心地よく、切った口元には鋭くしみた。 「派手にやりましたねー」  目を開けると、ペットボトルを持った津和野がしゃがみこんでいる。ボロボロの小野寺を前に、なぜかちょっと嬉しそうなのだ。  小野寺はもう一度目を閉じた。 (俺はずるい奴だ)  プライドをはぎとられ、生皮をむかれたように心がひりつくのを感じながら、ぼんやりそう思った。 (失うのが怖かったんだ)  茅野の端正な顔が、すぐ隣で自分を見上げる時の表情を思い出した。寮のベッドの中で見せる、宗教画の天使のような寝顔を思い出した。それらはいつも練習に疲れ、ぬくもりに飢えた小野寺の心を満たしてくれた。 (俺のそばで笑っていてくれればいい。そう思って、臆病な自分を正当化してたんだ)  茅野を抱きたい。今は素直にそう思えた。 (どんなくそったれな運命にでも立ち向かう。俺に必要なのは、そんな馬鹿正直な覚悟だったのかもしれない)  今から本当の気持ちを伝えたら――もう遅すぎるだろうか。  小野寺はもう一度目を閉じた。

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