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第21話 【平成】もう一度巡り合う運命

 次の週、休講掲示板の前に茅野はいなかった。小野寺は夜間授業が始まるまでそこで待ち続けたが、とうとう現れなかった。  その次の日は、部活の練習の時間になるまで掲示板の前に立っていたが会うことはできなかった。休講や追試の情報は学生なら定期的に確認するはずなので、待ってさえいればいつかは会えると思うのだが、会えないところをみると茅野のほうが避けているのだろう。  水曜日からは、講義と講義の間の短い休憩時間にも探し歩くようになった。  そして、告白の日から十日目に小野寺はやっと彼をみつけた。  休講掲示板の前だった。教室移動のためだろう。いつものふくれたデイパックになぜか紙袋を二つさげて、重そうな足取りで歩いてきた。  別棟からやってきてガラスのドアの前に立ったものの、両手がふさがっていてドアを開けられずにもたもたしている。 「茅野!」  小野寺は廊下に響くような声をあげて走りだしていた。  瞬間、茅野は顔をひきつらせた。現場を見とがめられた犯罪者のような怯えた表情だった。  がしゃん、と音がした。茅野が驚きのあまり紙袋を取り落としたのだ。渡り廊下の床に荷物が散らばった。旅行用の歯ブラシセット、シャンプーとリンスのミニボトル。買ったばかりのカミソリ。整髪料のスプレー缶……洗面用具のようだ。  ひゃっ、と変な声をあげて茅野はしゃがんでそれらを拾い集め、乱暴に紙袋につめるとあわてて今来た方向にひきかえした。  小野寺はドアを押し開け、後を追う。  旧校舎に走りこんだ茅野が、手近な教室に入るのを確認し、小野寺もそこへ飛びこんだ。  中はひとけがなく電灯もついていない。今はもう使っていない教室のようだった。ほこりっぽい教室に並んでいる机や椅子は、古びた木製だった。壁面にはスチール棚が並び、なにかの資料なのかスクリーン映写用のフィルムがぎっちりおさめられている。  追いつかれた茅野は完全に気がどうてんしているようだった。よろめき、大きな荷物をあちこちぶつけ、机や椅子に体当たりしながら、とうとう奧の壁につきあたって座りこんでしまった。  荷物を投げ出して幼児みたいに両手で顔を覆う。 「……なんで、なんで、逃げるんだよ」 「だって」  息をきらして問う小野寺に、茅野が蚊の泣くような声で弁解する。 「だって……恐いんだ。小野寺に嫌われるの……死にそうに恐いんだ」  いやいやをするように頭を振る。 「茅野、俺、謝ろうと思って待ってた」 「……あやまる?」 「俺も茅野のことが好きだった。ずっと前から、茅野が言うように、何かを犠牲にしても大事にしたいって思えるくらいに好きだった。好きじゃなかったら、こんなに長く側にはいられなかったと思う」  茅野は、顔を隠していた両手をそっとおろした。涙のうかんだ瞳でじっと小野寺の顔を見る。 「……小野寺が優しいのは知ってる。いつも僕を甘やかしてくれるのも知ってる」 「そうじゃないよ」  小野寺は左の膝をついてかがみこんだ。 「こういうこと」  顎をとってそっと唇を重ねた。繊細な唇が驚愕にわななく。 「――だろ?」  みるみる朱に染まった小さな顔がうなずくと、これ以上はないほど見開かれた瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。  もう一度唇を重ねた。今度はもっと感触を確かめるように、ゆっくり包みこんで吸いあげた。力の抜けていく茅野の肩に手をまわし腕の中に抱いた。  蕩けて半開きになった唇の隙間からそっと舌を差し入れると、奧に潜んでいた彼の舌がおずおずと応じた。濡れた感触にぞくりと背筋が甘くしびれた。粘膜の温度を感じあいながら、長い間キスしていた。 「どう、どうしよう、ちょっと今立てないかも」  すっかり腰がくだけてしまった茅野を、自分の胸に寄りかからせるようにして後ろから抱きしめ、小野寺はその愛しい頬を撫でた。華奢な茅野は小野寺の腕の中にすっぽり入ってしまう。 「あ、あのね。今週、約束守れなくってごめんね」 「いや」 「僕、あれからずっと本校舎の図書館にこもってたんだ。授業もさぼっちゃった。法科学校にも行ってないんだ」  目を伏せて茅野が言う。  小野寺は驚きでしばし言葉を失った。 「でも……いいのか、そんな。だって今まで、家族の期待に応えるために頑張って……」  茅野が確信を持って深くうなずいた。 「僕、論文書いてたんだ。近代詩人の作品論を。前から書いてみたいって思ってたんだ。様式もよくわからなかったけど、勢いだけで一週間で書いた。それを文学部の教授に無理にお願いして見てもらったんだ。そしたら『まだまだ稚拙だけど熱意は感じる。文学部に来るなら僕のゼミに来なさい』って言ってもらえて。僕、文学部への転部届けもらったんだ。学生科で詳しく教えてもらったら法学部と必修科目がいくつか被ってて、来年から国文学科の三年生として入れてもらえそうなんだ」 「家族は……いいのか?」 「大反対されてる。いや、両親はもう『穂がそこまでいうなら』って感じなんだけど。やっぱり、兄が」  そこで茅野はうつむいた。 「……だから、家出しちゃった」 「えっ」 「昨日までは友達の家を転々としてて。でもやっぱりあんまり迷惑かけられないから、今日はネットカフェか満喫かなあって。ネットで調べたら、となりの駅のネットカフェに五時間二千円くらいの深夜パック料金があってさ」  とんでもないことを言い出す。 「本気か?」 「どう? 気が狂っちゃったかと思った?」  いたずらっぽくそう言う茅野は、いままでになくすっきりとした顔をしていた。いきいきとして、カゴから飛び出した小鳥のようだ。 「小野寺に膝の骨をあげられないんだって知った時、正直すごく落ちこんだけど、ちょっと目が覚めたみたいな気持ちになったんだ。僕は物事を浅くしか考えてなかったなあって、反省した。小野寺はつらい思いをしてたのに、僕はそれにすら気づかず小野寺とどうかなりたいって、それしか考えてなかったなあって」  きまりわるそうにくすっと笑った。 「小野寺が何も恐れない果敢なプレーで僕に勇気をくれたように、今度は僕が目の前の壁にぶちあたってみようって思ったんだ。精一杯自分らしく生きて、遠くで小野寺を応援しなくちゃって思ったんだ。小野寺に恋をした男は、けっしてうじうじ惨めな人生を送ってたりしない。小野寺がくれた思い出のおかげで今も頑張って生きてるって、いつかそんなふうに思ってもらえるように」  愛しさに胸が痛む。たまらなくなって茅野をぎゅっと抱きしめた。 「息がとまっちゃうよ」  萱野がもがき、小さく抗議する。 「立場が逆転しちまったな」  小野寺はもっとなにか言ってやりたいのに、嬉しくて言葉がうまく出てこない。生まれ変わったように強い意志をみせる彼が、まぶしくて直視できない。 「小野寺、手術、受けてくれる? 僕、ずっと小野寺のそばにいるよ」  もうはなさないよ、と茅野が胸の前で小野寺の両腕を抱く。  どちらからともなく二人はもう一度唇を重ねあった。

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