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第4話
マンション地下の駐車場に車を入れ、助手席ですっかり寝入った彼の額に触れると、思ったよりも純平の熱は高かった。
「ん……」
「立てるか?」
薄くあけた目がうるんでいた。車から降りたものの、足下がふらついている。純平の脇に肩を入れてささえ、エレベーターで八階にあがった。大介が仕事場兼住居として借りている部屋だった。
玄関で純平の靴とよごれたストッキングを脱がし、廊下にあがる。仕事場を素通りして、奥の自分の寝室まで運んだ。濡れた服を脱がすのはひどく骨が折れた。しかし、腕や足を持ちあげ、あっちにころがし、こっちにころがししながら、なんとか脱がして、ベッドの中へ入れた。
ここに引っ越したとき、寝返りをうっても床に墜落しないベッドが欲しくて、大きめのセミダブルを買った。正解だったな、と大介は五年前の自分を褒めてやりたかった。
ベッドに横たわると、意識を布団に吸い取られるように純平は寝落ちた。呼吸はそれほど苦しそうではない。試合の準備から手伝って、途中で肩も痛め、体温も下がって、疲れきっていたのだろう。
まじめでけなげな子だ。大介は愛おしく思った。今はLGBTに対して世間の認知も進んでいるはずなのに、ゲイだとオープンにした彼は、やはり生きにくい世界を生きているのだろうか。
窓から差し込むカーテン越しの陽が、青みを帯びてていた。もう、夕方も過ぎたころだろう。自分のベッドで眠っている純平の寝顔を見ると、大介は大事なことをなしとげたような達成感を感じた。ベッドのへりに足を組んで座り、彼の様子をしばらくみつめていた。ほんのり朱の差す頬。閉じられたまぶた。震える睫。まっすぐな鼻筋と、ひかえめな唇。上下する布団の中の胸。ゆったりとした平和なリズムだ。筋肉のついた裸の肩がほんの少しのぞいている。
大介は、潮が時間をかけて満ちていくように、自分の心が満たされていくのを感じていた。
自分が大切にしたいと思うものを、ちゃんと大切にする人生。そんな単純でピュアな生き方がしたかった。唐突にそんなことを考えた。胸のうちに、幸太郎と雛子の顔が浮かんで消えた。どうして俺はいつも手遅れになってしまうのだろう。
大介は子供のときから、誰とでもすぐ仲良くなる子供だった。ともすると器用で、要領がいい、と周囲に思われていた。でも本当は人一倍寂しがり屋で、あっちこっちに声をかけてうるさくしていなければ不安だったのだ。それはにぎやかでありながら、自分が本当に大切にしたいものを見失いがちな生き方だった。
今回は俺にしてはよくやったじゃないか。純平を無理矢理車に乗せた自分を、大介はちょっと気に入っていた。あのまま見て見ぬフリをしていたら、きっとまたあとで苦い後悔をしただろう。
純平は、今、暖房のきいた部屋で無防備な寝顔を見せて眠っている。大介は幸福だった。
やがて大介は現実を思いだした。二人分の汚れた運動着を洗濯乾燥機につっこみ、手早くシャワーを浴びて部屋着に着替えた。駐車場にとってかえし、車に積んだままになっていた二人分の荷物を部屋へ持ってあがった。
寝室では、ひとねむりした純平がとろんとした目であたりをみまわしていた。
「お、目、覚めたか?」
「あ、あの」
自分が服を脱がされていることに気がついたようだ。
「濡れたままじゃ体によくないと思って脱がせた。今洗濯してる」
純平は上半身を起こし、おそるおそる布団を持ち上げて、自分の体を確認したようだった。Tシャツとトレーニング用ジャージ。その下に着ていたショートパンツ。そこまでは脱がせたのだが、下着代わりにきていたラグビー用のアンダースパッツだけは脱がせなかった。そこはどうしても、うしろめたかったからだ。
「ごめんな。全部着替えさせたかったんだけど、思ったより難しくてさ。あと、その、下着はどうかなって思って」
純平はぱちくり、とまたたいた。
「君がゲイだってことは、男性が性の対象ってことになるだろ。僕らでいう『異性』だ。自分が気を失っているときに、勝手に下着を脱がされてるなんて、気持ち悪いし、恐いだろうって思ったからさ」
純平は驚いたように目を見張った。
「久我さんは、僕に、恥ずかしい思いをさせないようにしてくれたんですか」
「君が俺の前でパンツを脱げるかどうかは、君が決めることで、俺が決めることじゃない。だって君のパンツだから」
大介は大まじめに言い、「これじゃなに言ってんだかわからねえな」と自分でつっこんだ。
「わかりますよ」
純平が目を細めて、まぶしげに何度もまたたきながら大介を見た。
「あなたが、僕をとても公平に扱ってくれてることが、ちゃんとわかります」
少しつかえながらも、嬉しげに言った。
「公平? 俺はこれが普通だと思うけど」
大介はむずがゆいような恥ずかしさをごまかすように指先で頭をかいて、それからガラスのピッチャーとコップを持ってきた。ピッチャーには、スポーツドリンクの粉末を溶いた水が入っている。
「シャワーより、今はちょっと休んだほうがいいな。まず水分補給。それから、市販の薬が飲めるなら、どうぞ。少しは楽になるよ」
部屋着のポケットに入れていた解熱剤を差しだした。純平は素直にコップを受け取って、薬とスポーツドリンクを飲んだ。
「すみません。こんなにお世話になってしまって……」
大介はそのまま、ベッドの端、純平の足のほうに腰かけた。
「ひとり暮らし?」
純平はうなずいた。
「あのグラウンドの近くに仕事場の倉庫があって、そばに単身者用の寮があるんです」
「風邪ひいたとき世話やいてくれる人なんているのか?」
大介の矢継ぎ早の質問に、純平は少し困惑して顔を伏せてしまった。
その様子を見て、初対面の人に「恋人がいる」とは言いにくいものだろうかと大介は少し反省した。
「ごめん、踏みこんだな」
さりげなく謝った。
「君のプライベートを詮索する気はないんだ。親しい人とか、家族とか、ちゃんと頼れる人に連絡がとれるんだったら、それでいいんだ。そしたら車で君の部屋まで送っていくよ。でももし――もし、そういう人に心当たりがないんだったら、その、この部屋に泊まっていってくれないか。どうせ明日は日曜日で仕事は休みなんだろ?」
大介はまるで頼み事でもするように、純平の顔を凝視していた。さっきまで洗濯機をまわしながら、ぼんやり考えていたことだ。
純平が目を覚ましたら、車で部屋まで送っていって、そこで別れるのが普通だろう。なんなら道中、コンビニにでも寄って純平が必要な薬や食料などを買い物して行ってもいい。それで充分、大介は親切な人だ
それなのに、大介は考え続けていた。ドラム式洗濯機の丸い窓の中で、自分のジャージと純平のTシャツがくんずほぐれつしてぐるぐるまわっているのをながめながら。
純平は自分の部屋に帰って、誰にも気兼ねすることなくゆっくり眠れる。それが一番いいはずだ。なのに、彼が誰も頼れずひとりぼっちで寝ているところを想像すると、大介の胸はひどくもどかしくなった。
不安なのだ。突然彼の容体が急変したら? 誰にも助けを求められないまま、意識を失ってしまったら? わずかな可能性をつきつめて考え、大介は憂鬱になった。いや、たぶん、そんなのは言い訳で、俺はあの子を帰したくないんだ。
大介は自分のベッドに純平を寝かせたときの不思議な満足感を思いだしていた。
純平をこのまま自分の目の届くところに寝かせておきたい。それは比護欲だろうか、それとも独占欲だろうか。身勝手で説明のつかない感情だった。
「会社の人は君がゲイだって知ってるんだよね。それって、君が自分からオープンにしたの?」
純平はかすかに首をふった。
「いいえ、もともとは寮の人が噂しだしたんです。僕がうっかりそういう雑誌をゴミに出したのみつかっちゃったみたいで」
僕がうかつでした、と純平は笑おうとしたが、その顔はひきつっていた。
「まわりの人に、本当にゲイなの? って正面きってきかれたら、嘘はつけなくて。どうも僕、そういうの苦手で、すぐ顔に出ちゃうんで」
「それで寮の人はそれを噂にして、本社の連中の耳にも入れたのか」
純平は感情の消えた顔でうなずいた。大介はますます純平を寮に帰したくなくなっていた。会社の寮は彼が安心して暮らせる場所ではない気がしていた。
「じゃ、実家は? 遠いの?」
「実家は、弦巻にあるんですが……」
大介は目を見開いた。
「めちゃめちゃ近いじゃん。なんで寮にしたの」
「それは、その、僕は両親と微妙なので」
それも彼がゲイだからだろうか。
「ほかに親しい人は?」
純平は黙ってしまった。嘘がつけないのは本当らしい。
大介は黙って純平の肩に手をおいた。ゆっくり顔をあげた純平に明るく微笑む。
「もう、ここで寝てけばいいじゃん。日曜までゆっくりして、元気になったら寮に帰ればいいよ。俺もひとり暮らしだから、全然気にしなくていい」
「久我さんの部屋、すごく広いですよね」
純平は感心したように言い、大介は得意げに微笑んだ。
「ああ、オフィス兼だから、ちょっと頑張ったよね。俺がこの部屋に俺がいなかったら、あっちの部屋で仕事してるから。なにかあったら声かけて」
大介は廊下につながるドアを指さした。
「お仕事、あるんですか……」
「まあね、でも自由業だから、できるときに進めておくだけ。気にしなくていいよ」
「じゃあ、もう少しだけ、ここで休ませていただいてもいいですか? さっきのお薬がきいてきたら、楽になると思うんで」
純平はやっと少しうちとけた顔を見せた。はにかみながらも大介を見上げる。そこにやっと「甘え」らしい感情があるのを見て、大介はむしょうに嬉しくなる。ほんのすこしだけ、純平が心を開いてくれた気がした。
「そうだな、その頃にはきっと服も乾いてるよ」
大介は純平を寝かせて部屋をあとにした。ひとりのほうがよく眠れるだろう。
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