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第6話
「あんまり悩み過ぎると、今度は知恵熱が出るぞ」
「でも、もうさっきよりつらくないです」
布団の上に顔を出して純平が答えた。
大介はふたたびベッドの上に腰かけた。部屋の照明をつけないともう部屋が暗すぎる。ベッド脇においてあるミニテーブルのライトをつけた。
「遠慮なんてしなくていいから。だから俺のために、もう少しここにいてくれないか?」
「久我さんのために?」
「俺はそういう下心があって、君を連れ込んだわけじゃないよ」
純平はかすかに笑う。
「わかってますよ」
「でも、君を自分で保護したかった」
「保護? 野性動物みたい」
純平は面白そうに笑う。体調がよくなってきているというのは本当らしい。
久我は、ひとり暮らしの寝室にしては広い八畳をみまわした。突き当たりの壁にはウォークインクロゼット。ベッドをつけた壁際には大きな出窓。丸い敷物と、床に置かれたバッグ類。ここに大きなケージを置いた日のことを思いだした。
「トリニティを辞めた頃、犬を飼おうと思ったんだ。このマンションは中型犬なら二頭まで飼っていいことになってるから」
今まで生活の中心にあった会社という時間軸がなくなってしまうのだ。なにか世話をしなければならないものがいれば、生活のリズムも整うだろうと思った。
「で、ペットショップで相談したら、その時お店にいた仔を薦められてさ。ちっちゃな黒い柴犬だった。『もうひとりでお留守番もできます』『ご飯も一回でも大丈夫です』っていうから、あんまり心配しないで、言われたとおりの飼育用品揃えて連れて帰ったんだ」
今思えば、ショップ側はどうしてもその仔を大介に買ってほしかったのだろう。かなり強引に話を進められた気がする。
「この世にこんな可愛い生き物がいるのか、ってがく然となるほど可愛かったよ。かまってやると、喜びすぎてうれションしちゃったりしてさ。でも、ある日、取引先のプレゼンに同行しなくちゃならなくなって、ほぼ一日家をあけちゃったんだ。帰ってきたら――その仔はケージの中で冷たくなってた」
はっと純平が息を飲んだのがわかった。
「ケージの中に餌も、水も、おもちゃも置いていったんだけど。俺がいない間に、餌を吐いてそれが喉に詰まってしまったみたいだ」
純平はベッドに横たわったまま、目に涙をためて痛々しい顔で大介をみつめてくる。
「獣医さんは、不幸な事故ですって言ってくれたけど。でも内心は、あんな子犬をひとりぼっちにした俺に怒っていたかもしれない。慣れない場所へ来たばかりだったからストレスがあったかもしれないし、ちゃんと餌が噛めてなかったのかもしれない。そういうところをもっときめ細かく見てあげて、まだ幼犬用の柔らかい餌をあげなくちゃいけなかったのかもしれない。あとは、たくさん鳴いたのかもしれないってさ。鳴きすぎて吐いてしまうことがあるんだって。あの仔はさびしくなって、ずっと俺を呼んでたのかも」
ずず、と純平が鼻をすすった。ベッドサイドからティッシュをとって顔をぬぐう。
「俺はさ、思い上がっていて、命を扱うことを甘くみたんだと思う。あの子のためにもっと勉強するべきだった。」
大介は苦い悔恨をこめて言った。
「人間に対してもそうなんだよ」
「人間?」
「純平もさっき、ここは広いって言っただろ? ここはさ、本当は二人分のオフィスにするつもりだったんだ。トリニティに大友っていう同僚がいて、そいつと一緒に独立するはずだった」
「その人は?」
「その人は働きすぎて死んじまった。可愛い奥さんがいて、そのお腹には二世もいたのに。三徹明けに駅のホームで立ちくらみ起こして線路に落ちたんだ」
人間もあっけないよなあ、と大介はうつろに笑った。もう涙は出なかった。五年前に出つくしたのだ。
「奥さん身重だったからさ、俺もできるかぎりのことをしたよ。労災認定のために会社にかけあったり。労基の窓口に相談にいったり。でも、そんなの全部あとの祭りだろ? 金をもらっても、会社があやまってくれても、死んだ人は帰ってこない」
その子は無事に生まれてすくすく育っている。大友の残した妻子が雛子と幸太郎だ。
「俺がさ、もっと強引に独立の話をすすめて、あとちょっと早くあいつに会社辞めさせてたらって、何度も思いかえすんだ。俺の寿命を五年、いや十年やってもいいから、あの時の数ヶ月をやり直させてくれないかって」
大介はそっと近づき、手をのばして純平の髪をかきあげた。
「純平は俺のことを『余裕のある大人』って言ってくれたけど、そんな上等なもんじゃないんだよ。いっつも、肝心なことに間に合わなくて後悔ばっかりだ。俺は誰かを守ることに鈍いらしい」
「久我さん……」
純平はその手に自分の手を添えた。頬をすりよせる。幼児のような柔らかな頬だった。大介は指でなんども丸みのある輪郭を撫でおろした。
だから、あの時、純平を見捨てていくことができなかった。守りたいと思ったものは、ちゃんと守らなければ。「今は忙しいからあとで」なんて言ってるうちに、取り返しのつかないことがおきる。
「そんな、怯えた顔、しないでください」
純平がささやいた。
「んだよ。お前だって俺から逃げようとしたくせに」
なじるように言うと、困ったなあ、と純平がかすかに笑った。
「純平はちゃんと俺に看病させてくれよ。もう後悔させないでくれよ」
まるで大介のほうが、純平にすがって甘えているようだと思った。
純平の表情が変わった。さっきまで大介にひどく遠慮していたのが、やるべきことを見いだしたように自分から大介の手を握る。
「僕が逃げないように、このまま一緒にいますか?」
純平が布団をまくった。もぞもぞと片側につめる。
「僕が一緒にいたら、久我さんは、もう恐く感じないですか?」
見慣れたシーツを見ると、どっと今日の疲れが押しよせてきた気がした。
「疲れた顔してますよ。今日は試合もあったし、僕のことも運んだりして大変だったんですよね」
すっと純平の指が大介の腕にからんだ。それはいたわるようにやさしい触れ方で、誘われるように大介は純平のとなりに横たわった。肩が触れあった。誰かと一緒に寝るのは、久しぶりの感覚だった。
暖められた布団と、自分以外の男の匂い。大介は目を閉じてゆっくり呼吸した。それはなぜか大介をほっとさせる匂いだった。
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