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第8話

――今度の日曜日会えますか。 ――ごめん。次の日曜は予定があるんだ。来週なら会える。  そんなメッセージを交わしたのが一週間前。  そして―― 「久我さん、やっぱりもう連絡取りあうの、やめましょう」  電話の向こう側の声は震えていた。 「純平、急すぎて全然話が見えないんだけど」  大介は途方に暮れる。  三日前からさんざんメッセージを無視されたあげく、電話に出たと思ったらこの仕打ちだ。 「誰かになにか言われたな」 「違います」 「美佳か?」  ひくっ、と一度、純平がしゃくりあげた。 「僕が、勝手に――そう思うんです」 「純平、ちゃんと会って話そう」 「会ったら、きっとお別れできなくなります」  純平の声は泣きそうにうわずった。  じゃあ、別れる必要ないだろ、と言いたいのを大介はぐっとこらえる。俺のほうが年上なんだ。「優しくて、余裕のある年上の人が好き」。純平だってそう言ったじゃないか。ここはゆっくり聞いてやらなくては。  大介は仕事場の時計を見た。午後七時をまわっている。今日は金曜でさっきまでうかれ気分で、週末の予定を決めようと思っていたのだ。 「純平、仕事はもう終わったのか」 「はい。今、寮の部屋です」 「このまま少し話せる?」  純平は黙っているが、電話を切らないでいることが一番の返事だろうと大介は思った。 「あわてて答えを出さなくてもいいだろ? 俺たち、ゆっくり恋愛しようって話したじゃん。お互いに好きなこととか、大切な場所とか教えあって、普通の男女みたいな恋がしたいって、純平も言ってたじゃん。俺とだったらそれができるんだろ?」  小さな子に言いきかせるようにゆっくり説得する。 「純平はさ、普段どんなお店で飯食ってるの? 今度教えてよ。一緒に行こう」  とりなすような大介の言葉をさえぎってて純平は言った。 「久我さんは、僕がゲイで差別されてて可哀想だから、助けてくれたんですよね」 「それは――」 「でも、僕と恋愛するってことは、その『可哀想』な側に久我さんも立つってことなんですよ。あのときは僕、熱もあったし、久我さんに優しくされて舞いあがっていたので、うまくいく気がしてたんです。でもあれから、ゆっくり考えてみたんです、やっぱりノンケの久我さんとそうなるのは無理じゃないかなって」 「純平は、俺の覚悟を疑ってるの?」  純平は黙る。不安で押しつぶされそうになっているのだとすれば、すぐにでも抱きしめてやりたい。 「あの日、君にキスすればよかった? 押し倒して、ちんこ触ってペッティングくらいしておけば、君は俺を信用できたってこと?」 「……違います。そういうことしない人だから、僕は、久我さんが……」 「でもそのことで君は不安になってるんだよね」 「僕は」  何度も息を止めるような、苦しげな息づかいが聞こえた。とうとう泣かしてしまったようだ。 「ほんとのこと言えよ、純平。不安の原因はなんなの」  低く嗚咽したあと、ようやく純平は言葉にした。 「笑って、ほしいんです」 「笑う?」 「久我さんに、笑っていてほしいんです。あの子を肩車して走ってたときみたいに」  後頭部を殴打されたような衝撃が走った。先週の日曜日、大介が肩車したのは幸太郎だった。保育園の運動会で父子競技があった。親子参加の種目があるのは毎年の恒例で、そのために大介は大友の代理として参加しているのだ。  保育園の近くにある公園の広い芝生を使って、運動会は行われた。色とりどりの風船をかざり、ブルーシートの上に玉入れのカゴや、大玉が用意されていた。  当日はいい天気で、大介と美佳は、雛子、幸太郎親子と合流し、一緒の敷物に座って、年長になった幸太郎がポンポンをもってダンスするのを見守った。  父子競技になると、幸太郎もうそれが当たり前のように大介の手をとって、フィールドへ連れていった。五歳の幸太郎と手をつないで走り、用意された旗をとって、帰りは肩車で帰ってくる。それだけの競技だった。  両脇に手を入れて抱き上げた幸太郎が去年よりもずっしりと重くなっていて、大介はその成長が嬉しかった。肩車して頭につかまらせ、走りだすと肩の上でぴょこぴょこ小さな尻がはねた。そのたびに鈴を転がすような明るい笑い声がこぼれる。幸太郎が笑いすぎて舌を噛んでしまうのではないかと、大介は心配になった。  ゴールに入ったのは二番目だった。それでも幸太郎は充分嬉しそうだった。「パパやったね」とくり返す。他の人の目にも本当の父親のように見えただろう。それを見ると、大介はいつも急に現実に帰ったように胸がふさいだ。自分のしていることは、死んだ大友の居場所を奪うことなのではないかと、悲しくなった。  幸太郎の顔は日に日に大友に似てくる。「君の本当のパパは、君が生まれることを知って、ちょっと頑張っちゃったんだ。それでうっかり倒れてしまった。きっとすごく心残りだったろう。だから天国のパパに心配かけないように、毎日を大切に生きようね」本当はそういって、幸太郎の心の中に大友の居場所をつくってやりたい。君は亡き人にちゃんと愛されたんだよ、と教えてやりたい。そうでなければ大友が自分の遺伝子をこの世に残した意味とはなんだろう。  それなのに、他の子供たちが楽しげに父親と連れ立っているのを見ると、なんだか幸太郎が不憫になってしまうのだ。今どき、シングルなんてめずらしくもないだろう。それでも、生まれつき父のいない幸太郎の境遇が、ひどく不公平な気がしてしまう。そして、その不公平の責任の一端が自分にあるような気持ちにさいなまれて、大介は必要以上に幸太郎の前で明るくふるまってしまうのだ。 「すごく楽しそうな笑顔でした」 「ああいう会場は、子供たちを盛り上げようっていう雰囲気だから、みんな笑顔になるんだって」 「あのお子さんは、亡くなった同僚の方の遺族なんですよね。久我さんは、あの奥さんとお子さんと、すごく仲がいいんですよね」 「美佳か!」  あのおしゃべりめ! と大介は舌打ちしたくなった。 「僕が訊いたんです。美佳さんのSNSに写真がたくさん載ってて……」  そういえば、運動会の時、せっせと美佳が携帯で写真を撮っていたっけ。それをSNSに投稿していたのか。先に純平にきちんと説明しておけばよかった、と大介は後悔していた。 「俺はあの子の父親じゃない。あの子もいずれちゃんとわかってくれる。雛子は――」 「いいんです。あの人たちのことはいいんです。でも、小さな子を肩車して笑っている久我さんが、すごくいい笑顔だったので」  純平はそこで苦しげに息をつまらせた。 「それは、それは、僕が見たことのない笑顔だったので」  泣き声が受話器を通じて、大介の胸を打った。 「僕と日陰の人生歩むよりも、ずっと似合ってる気がしたんです。太陽の下で綺麗な奥さんと、可愛い子供と楽しく笑っている。ちゃんと周囲の人たちに祝福されて。久我さんはそんな生き方ができるんです。なのに、僕に同情してそういう生き方を捨ててしまっていいのかなって……」 「いいよ。べつに」  あっさりと久我は首肯していた。 「久我さん!」  純平は怒ったような声を出した。 「いや、本気で結婚して子供が欲しかったら、とっくに行動してると思う。俺けっこういい年だぞ」 「え」  純平はあ然とした声を出した。 「でも、してないってことは、俺はあんまりそういうのに興味がないんだな」 「はあ」 「でも、純平のことはちゃんと連れて帰っただろ。純平には興味があったんだな」  純平は、黙りこくっている。 「恐いよな。俺だって恐いよ。これでいいのかわかんないよ。でもそれって、きっと男女でも一緒だよ。ほんとに自分でいいのか、相手には他の人と幸せな人生があったんじゃないのかって、そうやって悩むのはさ」  語りながら大介は、純平には人並みの恋愛経験がないのではないかと思った。だから、やたらと不安になるのだ。 「大介さんも……不安なんですか」  さっきまで久我さんだったのが、大介さんになった。わかりやすいな、と大介は苦笑した。 「当たり前だろ。今もこうして純平泣かしちゃったしさ。もっと包容力があって、優しいいい男がいるんじゃないのって、言いたくもなるよ。嫌われるのは恐いよな」 「すみません。……僕、不安だっただけです。本当は、別れたくないです」  純平はまだ鼻をすすりながらそう言った。そうこなきゃな、と大介は膝を叩きたい気持ちだった。ようやく気持ちの整理がついたようだった。 「会おうよ。会わないと、お互いにどんどん不安になる気がする。俺の知らないところで純平が不安になってるのはいやだな」 「今からでも、いいんですか」 「いいよ。飯食った?」 「まだです。大介さんと別れなきゃって思ったら、それだけで吐きそうだったので」  大介はどうしようもなくむずがゆいような嬉しさと、きゅっと絞られるような胸のうずきを感じた。  こんな不安が消える日などあるのだろうか。純平と体を重ねたら、そんなものは消えるのだろうか。 「寮ってどこらへん」  住所をメモに書き取った。 「今から行く」  純平には言わなかったが、不安を打ち消すもう一つの方法がある。それは自分のほうから全力で愛することだ。相手のためにつくすことだ。

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