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第9話
川沿いに大きな倉庫が見えてきた。純平と初めて出会ったグラウンドと、そう遠くないところに彼の職場はあった。トラック用の広い駐車場に大きく屋根がせりだしている。シャッターの降りた出入り口の前には、折りたたみ式のコンテナと、貨物用のカゴ車が連なっていた。
倉庫の裏側に寮がある、と純平が説明していた。車を狭い路地に入れると、二棟のコンクリートの建物が見えてきた。うちっぱなしの灰色の外観に、ベランダの覆いだけが鮮やかな水色のアクセントになっていた。
二棟の間の砂利道に車を停めて、大介は階段をあがり、純平の部屋を探した。
「清永」と書いた紙が透明のプラスチック板にはさまっていた。チャイムを押そうとして、大介は一瞬ためらった。ドアがすでに半開きになっていた。隙間から細く玄関の灯りが漏れ、話し声がする。
女性の声のようだ。
「いいの? 純平は、ほんとにそれでいいのね。後悔しないのね」
純平がなにか言い返している。
「あのね、私は、これがあなたが立ち直る最後のチャンスだって思ってるの」
会話の内容に重い空気を感じて、大介は少しひるんだ。立ち聞きしていいかもわからないが、もはや引き返すこともできなかった。
「もう、会いたくないって、坂下さんに言って。僕は被害者じゃないって」
「わかった。でもこれだけは信じて。私、純平に幸せになってほしいの。ちゃんと人を愛して、愛される人になってほしいの」
女性の声は切実だった。しかし、純平は突然声を荒げた。
「なに? 自分が結婚したから、上から目線? どうせ僕は」
「ほら、すぐそうやってひがむ。私はそういうことを言ってるんじゃないよ。あんたは、いつまでも人を信用しないから! 人に心を開かないから」
「うるさいっ!」
大介は初めて、純平が激昂する声をきいた。
「どうして僕がそうなったか、姉さんは全部知ってるくせに!」
どうやら話の相手は純平の姉らしい。
はあ、と大きなため息がきこえた。
「あなた、もう二十一でしょ。大人でしょ。もういいかげん、逃げてないで過去と向きあいなさいよ」
捨て台詞。となれば、当然の次の展開は――。
大介の目の前で勢いよくドアが開いた。若い女性が飛びだしてきて、ぶつかりそうになった。
「あ、すみません」
反射的に言って、彼女は大介を見た。真新しいカットソーにフレアスカート。髪は明るく染められ、きれいに内巻きになっていた。色白で茶色の目を大きく見開いたところは、純平によく似ている。
「すみません、あの、清永になにかご用ですか」
彼女は探る目つきで大介にたずねた。
「あ、どうも、今夜、清永さんと会う約束を」
大介は会釈して、思わず髪に手をやった。髪はこざっぱりとカットしてあるが、自由業の特権で髭はぱらぱらと伸ばしてある。それなりのブランドではあるものの、ボア付きパーカーにジョガーパンツ姿の男をどう思うか、大介はちょっと心配になった。
じっとにらむように大介を見て、純平の姉は玄関の扉を閉めた。共有廊下をみまわし、他に人がいないのを確認すると「ちょっといいですか」と大介を廊下の端へ連れていった。
「私、清永純平の姉で伊東雪穂といいます。失礼ですけど、あなた、弟とつきあってるんですか」
いきなりの自己紹介と直球の質問だった。姉はひどく思いつめた顔をしている。そんな悲壮な表情も、純平によく似ていると思った。
「ああ、どうも、久我大介といいます。フリーのグラフィックデザイナーとしています。弟さんとは、おつきあいさせていただく予定です」
「予定って?」
雪穂はちょっと毒気をを抜かれたようだった。
「まだ初デートもしてないものですから」
おおげさに恥ずかしそうにすると、雪穂はしばらくきょとんとしていた。それから急に眉間に深いシワを刻んだ。
「あなたは、弟のどこがいいんですか」
「一言では説明できないですね」
「あなたは、純平よりずっと年上だし、裕福な感じがします。きっと女性のウケもいいんじゃないですか? 男同士じゃこの国では、不自由で不愉快なことも多いと思いますよ。なのに、どうしてうちの弟がいいんですか」
大介は目を丸くした。不思議な既視感だった。さっきまで純平にも、そんなことを問いつめられていた気がする。
雪穂は必死だった。まるでなにかと戦っているかのように、ぎゅっと目をつりあげて一生懸命に辛辣な言葉を探しては、大介と純平に投げつけてくる。
「弟は、あなたから見たら、若い以外なんの取り柄もないでしょう。学歴もないし、仕事は肉体労働です。入荷した荷物を振り分けて積み込むだけですから。力があって数が数えられれば誰でもできる簡単な仕事です。給料も安いし、教養もない。あなたと対等におつきあいすることなんてきっと出来ないでしょう。あなたから見て、あの子にどんな魅力があるんですか」
言いたいだけ言ってしまうと、大介にくるりと背を向け、逃げるように共有廊下を去っていった。
大介は、嵐が好きなだけ吹き荒れて去っていくような勢いにしばらくぼう然としていた。純平を悪く言われたのはさすがにかちんときたが、どこかでしょうがないという気がしていた。弟とそういう仲になった男に、友好的に接することができなくても仕方ないのかもしれない、とむしろ同情に近いものを感じた。
それより、さっきまで雪穂と言い争っていた純平のことが心配だった。
「純平? 俺だけど」
今着いたふうを装って、ドアチャイムを鳴らした。
しばらくして顔色の悪い純平が扉を開けた。大介を見て、急に不安そうな顔になった。
「大介さん、あの、さっき、女の人に会いました?」
「いや」
大介は嘘をついた。よくわからない、という顔で首を振った。
「そうですか」
純平はどこかほっとしているようだった。
「どうした」
「ちょっと、あの」
なにか言いかけると、純平の目からぽたり、と滴が落ちて服の袖に染みこんだ。
「すみません、あの」
瞳はあとからあとからわきあがる涙で濡れていた。止めたいのに止められない。苦しい顔付きで、純平は必死で目をぬぐう。さっき興奮した名残で、動揺しているようだった。
「……大介さんが来て、ほっとしちゃって」
大介は玄関のドアを閉めた。運転用のスニーカーを脱いで、廊下の純平を抱きよせた。
純平は素直に大介の肩口に顔を埋めた。
「泣きたい?」
「いえ、大丈夫です」
「我慢しなくていいよ」
耳元でささやくと、純平の両手が大介の腰にまわった。きゅっと自分から抱きついてくる。
彼は家族の中でもひとりぼっちなのだろうかと考えた。小さな頃から、「僕は平気」そう言ってひとりで全て飲み込んで生きてきたのだろうか、と。こんなにも冷たい家族を、それでも守るために、頑張ってきたのだろうか。
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