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第10話

 どこか外で夕食を。そう思っていたが、彼の体を離すのが惜しくなってしまった。  女性のようにすっぽり抱けるわけでもなく、猫のように柔らかいわけでもない。抱きかかえるにはちょっとあまる肩幅と、しなやかな筋肉の張り。その体でしきりと大介にすり寄る純平が可愛らしかった。 「電話で、変なこと言って、すみませんでした」  泣き止むと、自分から仲直りの言葉をつむいだ。まだ赤い目をして、大介の胸によりかかったままだ。  純平の部屋は1Kだった。奥の六畳に半分に畳まれた布団が出しっぱなしになっていて、そこに二人でもたれかかっていた。奥に二畳分くらいの狭いキッチンが見える。炬燵になっている四角いテーブルに、まだ炬燵布団はかかっていなかった。 「男同士でこんなことしてて、大介さんが将来、僕のせいで人生を誤ったって感じたら恐いなって思いました。でも、そういうのもきっと僕のエゴなんですよね。僕が悪者になりたくないっていう」  大介はくすくす笑った。笑うと、自分の上半身にのっかっている純平もかすかに揺れた。 「自分の人生だからなあ。純平に責任とってくれなんて、ヤワなこと言わねえよ。そういうこという奴は、そう言って君の罪悪感につけこんでコントロールしたがる連中だ。そんなやつらの言うことなんてきかなくっていいんだよ。うるせえって蹴飛ばしとけ」  大介が笑い飛ばすと、純平も安堵した顔で微笑んだ。 「大介さんは、強くて大人だから。……大介さんと一緒にいると安心します」  大介は苦笑した。強くて大人かどうかは自分でも微妙だと思う。が、そう言われると悪い気はしない。純平の前で精一杯かっこうつけていたい自分がいる。 「じゃあ、一緒にいよう」  軽くいって両手で抱くと、また純平の目が泳ぎだす。 「面倒くさくないですか。僕、すぐ不安になったり、自信がなくなったりするから」 「おーい、そりゃないだろ。面倒くさい恋愛したいって誘ったの、純平なのになー」 「でも」  大介は純平の手をとった。指先をそっと自分の唇にあてる。騎士の挨拶にも似た、うやうやしいキスだった。 「ゆっくり行こう。俺は、純平に好きになってもらいたいよ。でも同じくらい、純平には自分で自分を好きになってもらいたいんだ」  そうだ。純平はまるで自分で自分を痛めつけているようで、見ていて苦しくなる時がある。彼の心の中に、まだ大介も踏み込めない領域があるのを感じている。  不可侵の森。  そこに彼がなにを隠しているのか、今はまだわからない。いつかそこに冒険に行って、封じこめられた彼の自尊心を取りもどしてやりたいのだ。たとえそこにどんな恐ろしい怪物が飼われているとしても。  いつか俺はそこに行く。そこで裸の純平と出会って、彼の本当の幸福を知る。  大介は祈るようにそう考え、また純平の手にキスをした。    ※   ※   ※  大介がいずれ対決したい、と思っていた相手は自分から大介の前に現れた。  今度こそ、仕事終わりに食事、というコースをねらって純平の職場近くに車を停めた。配送のトラックは停まっていなかったが、倉庫の周辺は皓々と夜間照明が灯り、まだ作業が続いている様子だった。案の定、携帯電話も通じない。  純平の仕事は、いちおう五時が作業終了の時刻になっているが、明日の午前配送の分を、前の日のうちにカゴ車にふりわけて積み込む作業が終わらなくては帰れないのだと言っていた。今日はまだ終わらないのだろう。大介はしばらく、あのトラックヤードの内部で作業服に軍手をして、汗をたらして働く純平の様子を思い浮かべた。真面目な働きぶりなのだろう。  少し時間をつぶしてまた来ようと、車のエンジンを掛けた。車を路地に入れたとき、見覚えのある人影が目に入った。髪を内巻きにした女性だった。寮のほうへ歩いている。  大介は反射的にウインドウを下げて、声をかけた。 「純平、まだ仕事、終わってないみたいですよ」  暗い路地でいきなり声をかけられて、雪穂は一瞬とびあがった。今日は薄手のコートを着ていた。 「驚かしてすみません。弟さんに会いにいらしたんですよね」  雪穂はようやく、大介だと気がついたらしい。口元をきりりと引きしめた。 「別に、会う約束はしていません」 「では、この前ケンカしたので心配で様子を見にきましたか?」  雪穂は少し驚いた顔で、大介をまじまじと見た。 「あの……」 「お互い、純平に待たされるみたいですよ。ちょっとお茶でもどうですか」  困惑する雪穂の顔を見て、急いで額をうった。 「ああ、そっか人妻か。俺みたいなチャライのが、道ばたで声かけちゃいけませんかね」  雪穂はくすっと笑いだした。 「久我さんは、弟に会いにきたんでしょ。私になんかお邪魔ですよね」 「そんなことないですよー、お姉さまー」 「棒読みじゃないですか!」  肩を震わせて本格的に笑いだした雪穂を、助手席に乗せてすぐ近くのファミリーレストランに入った。  二人でドリンクバーのコーヒーを飲む。純平は自分が二十一歳だと言っていた。雪穂もまだ二十代半ばで、純平に似た童顔だった。それにしては服装や雰囲気は落ち着いてみえた。やはり結婚して身をかためたということだろうか。 「そんなに心配ですか、純平くんのことが」  大介がきりだすと、ティースプーンでコーヒーをかきまわしていた雪穂は、ふふ、と自虐的に笑った。 「久我さんは、お見通しなんですね」 「この前はわざと、純平くんの悪口を俺に聞かせましたよね」 「下手なお芝居でしたね」  あの日、扉の向こう側で、雪穂は「純平に幸せになってほしい」と言った。大介は、その言葉に嘘はないように感じた。むしろ強い意志を感じたのだ。 「俺が、純平くんと適当に遊んで別れてしまうのが心配だったんですよね」 「すみません。でも、本当にあの子がちゃんとあなたに愛されているのか、確かめたかったので――馬鹿なことしました」  雪穂はバツが悪そうに薄く笑った。そして、すぐ訴えかけるように大介の目をじっと見た。 「あの子、見てて心配なくらい純粋で、かけひきとか全然ないんです。好いてくれる相手に、全部捧げようとしちゃうんです」  雪穂はじっと揺れるコーヒーの表面をみつめていた。ミルクと砂糖をとかした甘いコーヒーが優しい茶色で揺れていた。 「でもそれって結局、人を信じられていないんだと思うんです。あの子は自分のことも信じていないんだと思うんです。なにかを犠牲にさしださなきゃ愛してもらえない、って考え方そのものが」  雪穂の言うことが、なんとなくわかる気はするものの、自分はまだ雪穂ほど深く純平のことを理解できていない、と大介は思った。大介はまだ、純平に全てを捧げられようとはしていない。二人の関係がまだそこまで成熟していないような気がしている。それともそれは「今回は体から始まらなかった」というだけのことだろうか。純平は、大介にはむしろ逃げ腰で、それでもどこかでつかまえてもらいたがっている。これはたぶん、純平にとっても遠回りな恋なのだ。 「誰も信じてないって……それはなにか原因があるんですか?」  雪穂はすこし沈黙し、そして静かに話しだした。 「久我さんは、『きょうだい児』という言葉をご存知ですか」  久我は首を振った。 「障がい児や、難病患者の兄弟をさす言葉です。家庭内での愛着関係に問題を抱えることが多いそうです。障がいや病気のある子のほうが、周囲にクローズアップされるので、その陰で苦しんでいてもあまり顧みられることがない存在なんです」 「あなたがたはそうなんですか」  雪穂はうなずいた。 「私たちは三人兄弟で、一番上に賢一という兄がいます――というか、いました」 「ひょっとして、お亡くなりになったんですか」  雪穂はかすかにうなずいた。 「兄は生まれつき重い心臓病を持っていて、三度の手術と長い入院生活をしましたが、残念ながら。でも、今でもうちの中では生きているんですよ」  ため息をついて泣き笑いのような顔になった。 「実家には今も兄の席があって、兄の食器があって、兄が使うはずの衣類を、母がせっせと買いそろえてる。親戚も誰も、それが異常だって指摘できないんです。だって親の愛、ですから」  大介は言葉を失った。 「兄を生かすことが両親の生き甲斐だったんです。そのためになんでも犠牲にできた。まわりもすごく応援してくれた。私と純平は、人並みのわがままも言えず、なんでも我慢して当たり前の生活をしていました」  そこで雪穂はくちごもった。片手で胸をおさえて、呼吸を整える。 「久我さん、私はひどいですか? 私の言うことは、常識からはずれてますか? 私、今でも恐いんです。たった十二年しか生きられなかった兄を、ひがむようなこと言ってる自分が。自分がひどく悪い人間になった気がして、恐ろしくなるんです」  大介は痛ましい気持ちで雪穂をみつめた。 「……俺は、雪穂さんと純平を責める気持ちはないです。その当時はお二人とも小さな子供ですよね。大人みたいに甘えを切り捨てて生きるのは、とても残酷なことだったと思います」  雪穂がはじめて深い眉間のシワを消した。目を伏せたまま、子供の頃を思い出したようにかすかに微笑んだ。 「私たち、子供なりに頑張ったと思うんです。お兄ちゃんが大変な病気で頑張ってるから、雪穂と純平も頑張る! って思ってました。でもやっぱり、普通に可愛がってもらえるよその子がうらやましかった。いつもいつも頑張ってないと家族の一員でいられないことが、苦痛でした」

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