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第11話

 一つため息をついて、コーヒーを口へ運ぶ。 「学校の先生は褒めてくれました。清永さんのうちは大変だね、頑張ってるねって。でもみんなの前でそう言われてしまうと、もう泣き言もわがままも言えなくなっちゃうんです。息苦しくって、私は一度、純平を連れて家出をしたことがあるんです。私は九歳で、純平は六歳でした。二人でリュックサックに家にあったレトルトやお菓子をつめて。防災袋から蝋燭とかライターとか持ち出して準備しました。少し遠くの公園に、トンネル状になってて中に入れる遊具があったので、その中で二人で夜まで過ごしました」  雪穂はソーサーにカップを置いてうなだれた。 「きっと大騒ぎになって、両親にすっごく怒られるだろうって思ってました。お兄ちゃんが大変なときにこんなことして心配かけてって。それが恐くて――でも内心では、望んでいたんです。叱ってほしかったんです。心配してほしかった。怒りでもなんでもいいから、私たちに関心を向けてほしかったんです」 「たっぷり怒られました?」 「いいえ」  雪穂は面白そうに言った。 「発覚すらしなかったんですよ。夜遅くなって、公園の周囲の家の灯りも消えてしまって。さすがに私も純平も恐くなって、家出をやめて半べそかいて帰ってきたんです。真夜中なのに、家の中はからっぽでした。電話の録音ボタンだけが光っていて、ボタンを押したら、お兄ちゃんの体調がよくないから、病院に泊まる。先に寝てなさいってメッセージが入ってました」  笑っちゃいますよね、と雪穂は笑いながら、眉をひくつかせた。 「純平がどう思ったかはわかりません。私はその時から、両親の子供は兄だけなんだって思っています。私と純平はただの同居人で、あの人たちの子供じゃないんだって。両親が悪いって言いたい訳じゃないんです。しょうがないことです。でもうちの親は兄の心拍数や、血圧や血中酸素量のことで頭がいっぱいで、私や純平が、誘拐されたり、事故に遭ったりしても病院を出るまで気がつかないし、具合が悪くてもなにもしてくれないってことなんです。だからもう、あてにしないで生きていこうって思ったんです」  大介は耳が痛かった。  本当は大切にしたかったものを、決定的に失ってしまうまで気がつかない。純平の両親は、自分によく似ているような気がした。 「兄が死んだ後、父は、今まで家族旅行も行ったことがなかったから、旅行に行こうって言い出しました。でも、どこへ行きたい? なにしたい? ってきかれても、私も純平もなにも答えられませんでした。だって、親に期待しないことで私たちは自分を守ってきたんです。それを今さら、甘えていいよって言われても。突然他人のおじさんに「君の親だよ、旅行に行こう」って言われても、気持ち悪いし困っちゃうじゃないですか」  すくいようのない話を雪穂はかろやかに語った。 「私はそれでも神経が図太いから、こうしてそれなりに生きてます。今は、夫にめぐりあって幸せに暮らしています。――純平は兄が亡くなってから、学校に行かなくなりました。フリースクールに通って高認はとりましたけど。私はずっと、あの子のことが心配でした。私は親代わりになって守ってあげられなかったって」  数日前、大介の部屋から帰り際にドアの外に立っていた純平の姿が思いだされた。あんなに嬉しそうだった理由が、やっとわかった気がした。  ――僕、人に頼るのが苦手で、すぐ『平気』って言って我慢しちゃうので、具合の悪いときにあんまり優しくされた経験がないんです。でも本当は誰かに看病してもらうの、ずっと憧れていたので。  ――昨日一日、夢みたいな日でした。  一度くらい、死んだお兄さんみたいに、大切に看病されてみたかったのだろうか。そしてそれは、子供のときから、誰にも言えないまま胸にしまわれた罪深い願望だったのだろうか。  雪穂は大介に微笑んだ。それは信頼の重みのある笑顔だった。 「久我さんを見た時、ほんとはやった! って思ったんです。純平やったじゃん! って。年上だし、優しそうだし、純平を包みこんでくれそうって思いました。純平を大事にしてほしいって思いました。でも、いきなりこんな話したって、むしろ引かれちゃいますよね」 「それでとっさにあんなことを?」 「あの子が可哀想な感じに見えればいいなあって思いました。家族にも冷たくされて、よし俺が守ってやろうって、あなたが奮起してくれたらいいなって。そういうに男気のある人だといいなって」 「自分が悪役になってもですか」  雪穂の目に初めて涙がうかんだ。レストランの暖色の灯りに、下まぶたの縁が金色に光っていた。 「私はもう、幸せになったからどうだっていいんです。だから思いきってあの子とケンカもするんです。あの子に、ちゃんと、人を愛せる人になってほしいから」  懇願するように大介を見た。大介は、はーっと息を吐き、ソファの背もたれに身をあずけた。 「こりゃー、荷が重いなあ」  あけすけに言うと、雪穂は涙をこぼしながら笑った。過去を話したことで緊張が解けて、こらえていた涙がこぼれてしまったようだ。  大介は冷めかけたコーヒーをブラックのまま一口すすった。安っぽいアメリカンだった。 「俺は、そんな立派な人間じゃないんですよ。ふらふら調子のいい人生を生きてきて。いっぱい失敗もしたし、失ってもきました。純平くんとは、ゆっくり恋愛しようって話したんです。お互いをもっと知ろうって。純平くんは、どうせ壊れてしまうくらいなら自分から壊しちゃう、みたいなところありますよね。期待するのが恐いってよく言ってますし」  雪穂は深くうなすいた。彼女が「自分も他人も信用していない」と責めていた部分だろう。 「純平くんは、すごく臆病で、そして純真なんだと思います。」  そして、純平のそういうところが、大介には、とても神聖で綺麗に思えるのだ。これ以上傷つかないようにしてやりたいと、比護欲をかきたてられるのだ。 「そんなピュアなところに、俺は惹かれるんだと思います」 「よろしくお願いします」  雪穂は深々と頭をさげた。 「ご期待にそえるように頑張ります」  大介も大真面目な顔で、神妙にお辞儀をした。  顔をあげると、雪穂が口に手をあてていた。笑いをこらえて遠慮がちにたずねてくる。 「あのう、久我さんって、ちょっと天然っていわれませんか?」 「え、この年で天然って、ちょっと痛い奴ですよ?」  大介がうろたえると、 「いいえ。小賢しい感じがしなくってとっても素敵ですよ。ちゃんと愛されて育った人のおおらかさだと思います。私にはうらやましいです」  少しせつない笑顔で雪穂は答えた。  会計を終えて、二人で外へ出たとき、そういえば「坂下さん」とは誰のことだったのだろうと大介は思った。前に、純平の部屋の玄関で二人が言い争っていたときに出てきた名前だ。いまさら立ち聞きしました、とも言えず、大介は確かめることがないまま雪穂を送っていった。

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