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第15話

「あれ、空いてる」  純平は意外そうな声をあげた。門を閉鎖していたらしい鎖が、コンクリートの上に丸めて置いてあった。上にははずされた大きな南京錠がある。  周囲を見まわしたあと、純平は、かちゃっと音をさせて門を開けた。  大介は敷地内におずおずと踏みこんだ。  最近誰かが来たのだろうか。玄関までの道を作るように雑草が倒されていた。黄色い穂をつけたアワダチソウの間を二人はゆっくり進んだ。錆びたブランコと古いタイヤを埋めこんだ遊具が、雨ざらしになっている。ここで純平は小学校、中学校、高校時代を過ごしたのだろうか。 「ここは、純平にとっていい場所なの? ここへ通うようになって、居場所はみつかったの?」  大介が問いかけると、純平はさらに表情を曇らせた。複雑な感情が、彼の胸のうちで交錯しているようだった。 「わからないんです。ここへ通ったことが僕にとってよかったのかどうか。でも」  純平は突然、大介に近寄って腕をとった。しがみつくようだった。 「でも、大事な場所であることには間違いないです。僕、大介さんに一緒にここを見てほしかったんです」 「大事な場所だから?」  なにか純平にとって大切な転機があったのかもしれないと思う。それがまだうまく説明できないようだ。  純平はしばらく、感傷的な表情で傷んだ学舎をみつめていた。そして、意を決した顔で大介のほうをふりかえった。  斜めに差す秋の日差しの中で、純平の顔は蒼白だった。まっすぐな髪が頭の輪郭にそって淡い茶色に透けていて、鼻が顔の半分に黒い陰をつくっている。唇を切れてしまいそうなほどきつく噛んでいた。その全身にみなぎっている覚悟が、大介は少し恐かった。 「大介さんは、僕が本当は卑怯で汚い人間だとわかったら、嫌いになりますか?」  遠くで烏の鳴き声がした。  ――僕が卑怯で汚い人間だとわかったら嫌いになりますか?  大介の頭の中で、純平の言葉が反響する。  大介は迷う。 「嫌いになんてならない」自分がそう言わなければ、純平のこの先の言葉を聞くことはできない。それはよくわかっている。しかし、このあと一体なにを聞かされるのだろう。  ほんの数秒。その沈黙がまるで耐え難いもののように、純平はぎゅっと目を閉じた。 「清永くん?」  突如、人の声が沈黙を割った。建物の中からガラス越しに男の声がする。  大介は驚いて思わずあとずさった。まさかこの廃墟の中に人がいるとは思わなかった。純平もびくりと体全体をこわばらせていた。  玄関のガラス戸がギギっと音をさせて開いた。声の主は建て付けの悪い扉を力一杯押している。 「清永くんだよね。ここでどうしたの」  若い男だった。彼はなぜか、純平を見て嬉しそうだった。欧米人の血が入っているのだろうか。そんな彫りの深い整った顔をしていた。長袖コットンセーターにジーンズを着ている。年齢は純平より少し年上に見えた。その若い男の後ろには、スーツ姿の壮年の男性がいて、手にコンパクトカメラを持っていた。 「坂下さんこそ……」  純平は作り笑いで返した。しかし、大介のところまでじわじわと後ろ向きにあとずさり、身体中でこの人に会いたくなかった、と訴えているようだった。 「でも会えてよかった。こちら、弁護士の上野先生。今回の訴訟を担当していただくことになってる。実況見分、じゃないけど、今日は土地のオーナーさんに許可をもらって現場を見に来たんだ」  坂下はアナウンサーのようなはきはきした口調で言った。紹介された弁護士の上野は、慇懃に頭をさげた。  坂下は手に持っていたレジ袋からスニーカーを出してはいた。弁護士のほうは革靴の底面にかけていた口ゴム付きのビニールカバーを外しただけだった。  建物から出てくると、すぐに弁護士は純平に名刺を出した。 「清永純平さんですね。私からの手紙はもう読んでいただけましたか」  弁護士はスーツの似合う三十代半ばの男で、メタルフレームの眼鏡をかけていた。物腰おだやかに純平に話しかけてくる。  いつまでも純平が名刺に手を出そうとしないので、仕方なく大介が横から受け取った。子供の非礼を詫びる親のような心境だった。 「読みました。でも、僕は原告にはなれません」  純平はおびえた声で投げつけるように言うと、すぐに大介の後ろにかくれてしまった。 「私たちには、君の力が必要です。十年近く昔のことを、関係者の証言から証明することはとても難しいのです。しかし、君の一件だけは……その証明がいらないので」  弁護士の説明が終わる前に、坂下が二人の前に一歩踏み出して迫ってきた。 「清永くん、昔のことを思いだすのはつらいと思うけど、そろそろ公訴期限が近づいている。だから一緒に戦う決心をしてほしいな。俺だって苦しんだ。過去のことだからもう平気ってわけじゃないよ。俺たち、きっと助け合えるからさ」  女性なら見とれてしまうような真剣な顔で、純平に近づいてきた。 「もう僕のところには来ないでください」  純平が叫ぶ。大介の背中の服をつかみ、顔をおしつけている。背中から伝わってくる呼吸が苦しげだ。 「すみません、よくわかりませんが、本人がこれだけ動揺してますから……」  事情はまったくわからなかったが、とにかく背後の純平を守るように大介は背筋を伸ばして二人の前に立ちふさがった。 「清永くんのお友達ですか? 少しだけ、彼と話をさせてください」  そう言うと、大介がなにか言い返すより早く、坂下は大介の肩ごしに純平に話しかけた。 「清永くん、じゃあ、君はどうしてここに来たの? やっぱりあのことが引っかかってるからだろ。この人に全部聞いてほしかったんじゃないの?」  この人、というのは大介のことだろうか。純平は大介の後ろでいやいやをするように大きく首を振った。 「僕は、傷ついてないし、後悔なんかしてないし、これでいいんです!」  すてばちな純平の口調に、坂下はかっと目を剥いた。憤りを隠しもせずに、眉をつりあげ一度大きく息を吸った。  大声で怒鳴る――大介は内心身構えたのだが、しかし彼は次の瞬間、燃えあがった怒りをこらえて、細く息を吐き出した。この状況では怒り散らしてもしかたない、と判断したようだ。  坂下の肩がかくりと落ちた。うつくしい顔に虚脱感がただよう。 「……清永くん、傷ついてないなんて、嘘だろ」  うちひしがれた様子でそう洩らして、くるりと踵をかえした。 「興奮してすみませんでした。先生、この話はまた後日しましょう」  弁護士は一度大介にお辞儀をした。二人は、純平と大介をその場に残して、けもの道のような雑草の隙間を遠ざかっていった。 「大介さん」  純平がやっと背中から離れた。恐い敵が去った、というところだろうか。 「あの人たちなに? 純平になにをさせたかったの?」  大介は背後を振り返った。純平は重い口をのろのろと動かす。 「坂下さんは、僕んの二こ上で、同じ時期にこのフリースクールに通っていた人です。彼は僕を……可哀想な被害者にしたいんです。自分たちと同じように」 「ここでなにがあった?」  大介が問いかけると、純平の目は、すうっと瞳の色が深くなった。どこか遠くを見るような目つきだった。大介がここにいるのに、まったく眼中にない様子だ。  ああ。大介は孤独感にさいなまれながら考える。彼は今、「不可侵の森」にいるのだ。自分にはまだたどりつけない心の深部にいる。 「愛、です」  乾いた声で純平が答えた。その言葉は体温のない冷たい音で、言葉の内容とかみ合わない。  ――愛?  大介が聞きかえそうとしたとき、純平は透徹した目で逆に問いなおした。 「大介さんは、僕が卑怯で汚い人間だとわかったら、嫌いになりますか?」  静かな言葉は、その裏に激しい感情を秘めている気がした。

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