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第16話
「そんな、試すようなこと言わないでくれ。俺は、純平のピュアなところが好きなんだ。今のまま――そのまんまの純平が好きなんだよ」
大介はいつもの調子で明るく笑った。
その笑顔を見て、まるで氷が溶かされたように、純平は一瞬、泣きそうに顔をゆがめた。しかし、すぐさま背中を向けて、大介から逃げるように走り出した。衝動的な動きだった。力強く足下の小石を蹴って、敷地から飛びだしていこうとする。
大介は見事な反射神経でにその腕をとらえた。自分だってラガーマンだ。
逃げようともがく純平をひきよせて、強引に抱きよせた。純平は驚くほどの力であらがった。二人はバランスを崩し、枯れ草の上に転がった。
固い敷石が腰にあたって、大介は「うっ」と一瞬声をつめた。それでも次に倒れ落ちてくる純平の頭に手をさしのべた。自分の体の上で受けとめて、すぐに体の上下を入れ替える。名前も知らない雑草の綿毛が、ぱっと空中に舞った。
誰もいない空き家の庭で、ふたりは折り重なって倒れていた。大介は純平の片手を土の上に射止めるようにおさえつけ、重みのある筋肉でのしかかっていた。もういっぽうを頭の下に入れると、うむをいわさず乱暴に唇を吸った。これほど激しく体も感情も交錯しているのに、彼の唇はみずみずしい花びらのようにひんやりとしてやわらかかった。覆いつくして呼吸さえ奪うと、抵抗し暴れていた純平の腕から力が抜けていった。
お互いの唇の温度が増す頃、ようやく大介は唇をはなした。
「純平、そんなに、怖がるなよ」
自分で言いながら、大介は胸を固いものでぐっとえぐられるような気持ちがした。自分の愛は、純平にとってそんなに恐いものなのだろうか。
――俺だって精一杯やってる。彼の望むような、くそ真面目な恋愛をしてる。精一杯優しい彼氏になっているはずだ。
なのにどうして、純平はいつも、大介の腕(かいな)をくぐって逃げようとするのだろう。本当は寂しくて倒れそうなくせに、どうしてなかなか本当の心を見せてくれないのだろう。
「なんでも話してくれよ。俺じゃ、お前を幸せにできないの?」
問いかけたとたんに、大介は、自分もまた不安で押しつぶされそうになっていることに気がついた。ぐったりとしていた純平の顔の画像が波打つように震えだして、血の気のない頬にぽたりと滴が落ちた。
純平が、はっと目を開いた。驚いた顔で大介をみつめている。その鼻筋にまた一つ滴が落ちる。
「何度も、好きだって、言ってんだろ、くそ」
地面を拳で叩いた。顎が震えてうまくしゃべれない。言葉にならない言葉がのどを押しあげ、情けない涙ばかりがぽたぽたこぼれた。
俺もそうとう虚勢を張ってきたな、と大介は思った。大人っぽくて、世間知があって、余裕があってやさしくて。そんな純平の理想の相手でいてやりたくて、知らないうちに無理をしてきたような気がした。
それでもよかった。となりで純平が笑っていてくれるなら、すこしくらいの無理も楽しかったのだ。
好きだといえば素直に抱きつき、からかえばすねる。そんなわかりやすい相手と気楽な恋ができればよかったのに、と大介は今さらにして思う。それでも、自分がどうしてもほうっておけなかったのは、出会った日のさびしそうな純平なのだ。
あの夜、自分のベッドの中で安心して眠る姿を見て、今まで知らなかった幸福を感じてしまったのだ。そして、今、大介の心を根底からゆさぶり、追いつめているのは、純平の愛されることに怯える孤独な魂だ。
それが欲しい。
大介はどうしようもない願望に焼かれる。それを俺にまかせてくれないか、と。
きっときっと、俺が暖かな幸福で包んでやるから。やるせない気持ちで思い、次の瞬間失うことを考えて絶望的になった。たのむから、他人にだけはやらないでくれ。それだけは耐えられない。
「……大介さん、どうして……?」
まだ状況を理解できていない純平が、おずおずと大介の濡れた頬に触れた。
「どうしてくれんだよ。年上泣かしてんじゃねーよ」
ぱちくり、と純平がまたたく。
「なんで、泣くんですか」
はあ、と大介はため息をついた。
なんで? お前が好きだからだよ、ばーか! と叫びたかった。いつのまにか、こんなにものめりこんでいたなんて。好意を拒まれてこんなに動揺するなんて。自分でもわけがわからないんだよ、ばーか!
答えるかわりに、じっとみつめ、もう一度今度はゆっくりと唇を重ねた。最初は見開かれていた純平の目も、やがて閉じられた。
大介はついばむように下唇をはむ。小さくて少し厚みがある。その柔らかさを実感した瞬間から、思考が全て停止した。舌先で歯列を割っても、純平は抵抗しなかった。むしろ少しあごをあげるようにしてみずから迎え入れた。
初めて触れあう粘膜はとても熱かった。夢中でからめとり、吸いあげた。彼の味がして、その唾液も自分のものとまざりあっていく。ゆっくりかきまぜると、彼が子犬のように甘く鼻をならした。
顔をはなすと、純平は今まで見たこともない顔をしていた。頬をほんのり上気させて、幸せにひたるようにうっとりと目を閉じている。頬に長い睫の陰が落ちる。乱れた髪に、草の葉がまとわりついていた。こんな廃墟のひとすみに、真っ白な華が咲いたようだった。
かなわない、と思った。たった十一年先に生きてきた矜持など。この純真な存在に根こそぎ揺るがされてしまう。
「ちくしょう、さんざん脅かしやがって。なにを打ちあけてももうはなさないからな」
大介がなじると、息を吹きかえしたどこかの姫のように、純平はうっすらとまぶたを開いた。
「大介さん……」
指でそっと唇をおさえ、かすかに嬉しそうな声音でつぶやいた。大介は指で純平の髪についた木の葉を梳き、抱きおこした。座ったまま、かしずくようにしてまっすぐに告げた。
「清永純平さん、俺に全部ください。俺はちゃんとお前の味方でいるから。だから、お前の背負っているものを、全部ください」
まるでプロポーズのようだと思った。
純平はしばらく呆けたように、大介をみつめていた。さっきの口づけで濡れたままの唇の両端がもちあがり、ゆるむ。
「僕も、大介さんが好きです。泊めてくれた日より、今はもっと、もっと好きです。たぶん、これからもっと好きになります」
そして感涙に潤む瞳で、大介を映した。
「ずっと、人を好きになるのが、恐かった。でも――あなたを好きになってよかったです」
※ ※ ※
「先生と、恋をしました」
純平は大介のベッドに腰かけて話し出した。大介は床に敷いたラグの上にあぐらをかいて聞いている。
「あのフリースクールの先生? 男性?」
純平はうなずいた。
「僕はあそこでもずっとひとりぼっちで。声をかけてくれたのは、上森先生だけでした」
その名前に大介は聞き覚えがあるような気がしたが、うまく思い出せなかった。
「最初はよくわからなかったけど、そのうち先生には妻子がいることがわかりました。僕は――別れたかった。でも僕は先生がいなくなってしまうのが怖くて。また、ひとりぼっちになるのが恐くて」
純平は苦しい声をしぼった。
「好き、でした。自分の気持ちをうまく止められませんでした」
そのことが、「卑怯で汚い人間だ」ということなのだろうか。
年上で余裕があってやさしい人がタイプなのだといった純平の声がよみがえって、大介の胸は苦い嫉妬に焼けた。
「でも、今はもう精算したんだよな」
「教え子と関係してるって噂がたって。それで先生は逃げるように退職していきました」
大介は眉を寄せた。
「それは、純平のことなの?」
純平は開いた両膝に肘を載せて両手の指を祈るように組んでいた。苦悩するようにじっとうつむく。
「僕だけじゃなくて、ほかにも、たくさん」
ひでえな、と大介はうめいた。そしてふと思い当たった。
「あの、坂下っていう人もその被害者ってこと?」
「彼は、先生に復讐しようとしています。強制わいせつや強制性交罪で訴えられるはずだって、あのフリースクールの仲間に声をかけて先生を訴えようとしています。公訴期限が迫っているので、焦っているんです」
「公訴期限?」
「検事が刑事事件として告訴できる期限です」
「純平は、それを拒否してるんだ」
純平はそこで少し心配そうに大介のほうを上目使いに見た。大介は純平の組み合わされた手をそっと握る。勇気づけるように。
「僕は、自分を被害者だと思っていません。僕は先生を好きでした。先生も僕を愛してくれました。あれは恋愛です。だから訴えることなんてできません」
眉を寄せて険しい顔つきになる。
「僕ももう子供じゃないので、なにが問題なのかはわかっているつもりです。先生は不誠実でひどい人かもしれません。坂下さんや、他の子や、先生の奥さんは先生が許せないかもしれません。でもそんな人でも、僕にとっては――両親にも甘えさせてもらえなかった僕にとっては、たったひとり、愛を教えてくれた人だったんです。先生に褒められたくて勉強もしたし、体を清潔にするようにもなりました」
「体を」のくだりが、ひどくなまなましくて大介は胸が苦しくなった。
「愛されたって思っていちゃいけないですか? 僕は弄ばれた被害者にならなくちゃいけないんですか? 大切な思い出のままにしておいたらいけないんですか?」
問いかける純平は真剣な顔で床をじっとにらんでいた。そしてすがるように大介を見る。
「時々わからなくなるんです。先生とそんな関係になった僕は汚いのか。坂下さんと一緒に戦わない僕は卑怯なのか。そして――こんな僕を大介さんに知られたら、嫌われちゃうのかと」
語尾は不安で震えていた。
大介はふっと目を細めた。純平のとなりに座り、くしゃりと髪を撫でた。
「嫌いになんてならないよ。一生懸命生きたんだなあって思うだけ」
「一生懸命?」
「そんな恋は、純平にはつらかっただろうなって思うだけ」
純平は一瞬、目をみはって大介を見た。そしてはじらむようにかすかに首を振った。
「つらいけど、僕は幸せでした。でもだからこそ、罪悪感を持たなくてはいけないのかもしれません」
「過去はもういい。坂下にもそう伝えればいいと思う。自分の過去と決着をつけたい人だけが戦えばいい。純平が先生とほかの子との間にはさまって、これ以上苦しむことはないよ」
もう怯えなくていいし、誰にも気兼ねしなくていいよ、と言ってやりたかった。
純平は顔をくしゃくしゃにして笑った。嵐にあって荒れていた海が、やっと無邪気な輝きを取りもどしたようだった。
「不思議なんですけど、大介さんにそう言ってもらえると、なんだか解決した気持ちになるんです。だから今日も、わざわざあの場所へあなたを連れていった。今の恋人にあえて話すようなことじゃなかったのかもしれません。でも僕はきっと聞いてもらいたかったんです……今はほっとしています。自分でもすごく不思議なんですけど」
大介はたまらなくなって、その肩に腕をかけて抱きよせた。彼つらいことをうちあけてくれたことが嬉しかった。彼を安心させてやれる男になれたことが嬉しかった。これで彼の背負う重荷を、少しは一緒に背負ってやれただろうか。
純平は甘えるように大介の胸に顔を寄せた。こんな素直なしぐさのひとつひとつも奇蹟のようだと思った。
彼の中にある「不可侵の森」は今やまばゆい朝日が満ちて、ただの静謐な森林となり、大介を受け入れてくれているような気がした。
もう誰にも傷つけさせない。
そう心に誓う。俺がそばにいるかぎり、純平の心を誰にも傷つけさせない、と。
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