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第22話

「なんとかして、その先生の所在をたしかめて、純平に謝らせてやりたい」  カウンターで息巻く大介に、シゲルはすっと氷水を出した。 「そんなのダメダメ。やめときなさい。恋人の昔の男に嫉妬なんて、ダッサ。余裕のある年上の男のすることじゃないわよ」  冷ややかに言ってじっとりとにらんだ。  木曜の夜だ。今日はコスプレナイトらしく、シゲルは体にぴったりしたラバースーツを着ている。厨房に起っている蒼は、高校球児のような野球のユニフォーム姿だった。  大介は冷たい水を喉に通して、ひとつ息をついた。怒りはまだ収まらない。 「昔の男だっていうだけじゃない。純平を弄んだんだ。あの子の純粋なところにつけこんで、やりたい放題して捨てたんだ。そういうクズは一度痛い目に遭わせないと!」 「よしなさい。ストーカー予備軍」  シゲルはぴしゃりと言うと、大介の注文にしたがって蒼にジントニックを二人分つくらせた。もうモヒートの季節は終わったのだ。 「犯罪者と一緒にするなよ。俺はちゃんと常識がある。そのうえで言ってるんだ」  大介は背の高いスツールの背もたれに寄りかかり、足を組んだ。我知らず怒りで息が荒くなっていた。 「多くのストーカーもね、自分ではそう思ってんのよ。正義は我にありって」  シゲルは苦笑した。つるつるのラバースーツを着た宇宙人みたいな恰好のイケメンに笑われて、大介はなんと返せばいいのかわからなくなった。なんともシュールだ。  大介は、苦いため息をついた。 「正直、嫉妬はたしかにある。こんなことを言う俺はダサいのかもな。でも許せないことは許せないんだ。たぶん、先生ってやつは、セックスを知らない若い子をいいように言いふくめて、すごく勝手な抱き方をしたんだ。それを――純平は、今でも愛だって思いこんでる」  自分で話していても、内臓をぎゅっと圧迫されているような気分の悪さがこみあげてくる。せっかくの酒がまずくなる話題だ。それでも吐き出すことをやめられなかった。  ――でも、そんな人でも僕にとっては、たったひとり、愛を教えてくれた人だったんです。  純平の孤独があまりにも痛ましい。  全身がソフビ人形のようになったシゲルが、ちょっと考えこんでから言った。 「ねえ、ねえ、そういや、大ちゃんの言ってることって、坂下っていう人と同じことなんじゃないの? 坂下は、先生を法的に訴えるって言ってるんでしょ? だったら、そいつに協力して、白日の下おもいっきりやってもらえばいいんじゃないの?」  そう言われて、あのフリースクールの廃墟での坂下の言葉が思いだされた。  ――清永くん、昔のことを思いだすのはつらいと思うけど、一緒に戦う決心をしてほしいな。俺だって苦しんだ。過去のことだからもう平気ってわけじゃないよ。俺たち、きっと助け合えるからさ。  彫りの深い綺麗な顔をした青年だった。あいつはそれほど悪い奴じゃなかったのかもしれない、と今なら思う。むしろ純平の味方だったのかもしれない、と。そういえば、あのときもらった弁護士の名刺は、今も大介の名刺入れの中にある。  姉の雪穂が、純平に怒鳴っていた言葉も思いだした。  ――あのね、私は、これがあなたが立ち直る最後のチャンスだって思ってるの。あなたももう大人でしょ。もういいかげん、逃げてないで過去と向きあいなさいよ。  二人とも、純平に戦えと言っていたのだ。戦って、自分自身を取りもどせと言っていたのだ。  最後に、純平のせつない言葉がよみがえった。  ――愛、です。  ――僕は、自分を被害者だと思っていません。僕は先生を好きでした。先生も僕を愛してくれました。あれは恋愛です。だから訴えることなんてできません。  大介はひとりで途方に暮れる。  愛じゃないんだよ。それは愛じゃなかったんだよ。でも、その偽物の愛に、純平はすがって生きてきたのだ。自分にそれが否定できるのか。今も思い出の先生を慕う純平の気持ちを、大介が否定できるのか。  大介は目の前のショットグラスを、ぐいっと空けた。冷たいアルコールが一気に胃に流れこみ、ぴりぴりする熱とライムの香気が喉の奥から上ってきた。グラスを置くと、氷だけが涼しい音をたてて回転する。 「もう一杯くれ」 「ちょっとあんた、ペース考えなさいよー」  シゲルがうるさい。カウンターには他の客もいるのに、今日はやたらと大介の相手をしてくれる。大介の荒れた様子に気をかけてくれているようだ。 「俺は無力だよ、シゲル。好きな人になんにもしてやれない。どんなに頑張っても過去は変えてやれない。これ以上、どうやってあいつを幸せにしてやればいい」  やや捨て鉢に言った。 「過去に立ち向かえ」それは正論かもしれない。でもこれ以上傷つく純平を見たくはない。  そんなことよりもっと、楽しくやさしい時間を一緒に過ごしたい。なにもかも忘れられるくらいの、楽しい思い出を作っていきたい。そうやって、純平のつらい過去の時間を、今からみずみずしい花でいっぱいに埋めてやることはできないのだろうか。 「そんなことないわよ」  シゲルはにっこり微笑んだ。母親のような口調だった。 「ラグビー部で一緒だった時から、大ちゃんは頼りになったもの。敵チームの神がかったキックで裏に抜かれた時も。バックスがサインプレーをミスってボール落とした時も。ピンチの時はいつも大ちゃんが後ろから走ってきてなんとかしてくれた。大ちゃんがフルバックとして後ろに構えててくれるから、私たちは安心して、試合ができた。どんな状況もなんでも受けとめてくれる。大ちゃんほど柔軟で頼りになる男はいないわよ」  歯が浮くような褒め言葉も、昔からよく知っているシゲルが言ってくれると、不思議と説得力をもって響いた。  シゲルが、毛虫のようなつけまつげのついた目でウインクをした。 「だ、か、ら、奇蹟は起こるのよ。ちゃんと純平くんの中で、なにかを変えていけるわよ。大ちゃんだもの」  蒼が、そっとカクテルグラスを置いた。鮮やかなブルーの液体に、糸のように細く切ったレモンピールが浮いていた。 「これは私から。ブルームーンです。久我さんはご存知かもしれませんが、花言葉のように、お酒にもカクテル言葉というのがありまして」  大柄の体を狭いカウンターに入れて、大介に微笑んだ。 「ブルームーンは『できない相談』そして『奇蹟の予感』です」  まるで相反するような言葉だ。大介がグラスを持ち上げると、バイオレットリキュールの華やかな香りがした。夜明け前の夜空のような不思議な青色だった。  大介は苦く笑った。シゲルや蒼の心遣いがありがたくて胸が苦しい。いい年をして、情けないほどへたくそな恋をしていると思う。起こったり、泣いたり、うまくセックスできなかったり。じたばた、じたばた。  この無様な気持ちがいつか、純平の心を動かす日がくるのだろうか。  いつかあの子を、幸せにできるだろうか。

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