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第26話

「こんなことしてあなたがたにすごく迷惑をかけていると、僕だって思います。でも、しかたないんです。久我さん、この夏、性犯罪に関する法律が改正されたのをご存知ですか?」  大介は首を振った。新聞でちらりと見かけたような気もするが、自分とは別世界のことだと思っていた。 「性犯罪は、告訴の時効がありません。だからいつでも告訴して警察に捜査してもらえるんです。でも検察官が罪として起訴できる期間は決まっています。これが僕が騒いでいる公訴期限です。この期間が過ぎてしまうと、あの男を法的に罰することはできないんです」  坂下はさすがに法律事務所の人間だけあって、よどみなく説明する。大介は聞き慣れない用語を必死で理解しようとした。 「今まで、アナルセックスでの強姦には強姦罪が適用されませんでした。強制わいせつ罪だったんです。強制わいせつ罪の公訴期限は八年。もうとっくに過ぎてしまっています。それがこの前の法改正で、強姦罪は強制性交等罪になりました。これからは、被害者が男でも適用されるんです。肛門性交でも口腔性交でも適用されます」  なるほど、すこしずつ同性愛者に開かれた社会になってきたということか。大介はうなずく。 「強制性交等罪の公訴期限は十年です。しかも、過去の事件にさかのぼって適用されるんです。やっと! 僕らは、上森良継を法廷に引きずり出すことができるんです」  坂下は興奮を隠さず語った。頬が紅潮してくる。  大介はひとくちコーヒーをすすった。 「でも、一般的に法廷の場で強姦を証明することは難しいんだろう? 女性の例を見ていてもそう思う」  坂下も深くうなずいた。 「そのとおりです。十年近くさかのぼって、その行為の前に同意があったか、暴行や脅迫の事実があったかを克明に証言するのは、当事者にも第三者にも難しいことです」  やや冷めた口調には自嘲がまじる。そして懇願するように大介をみつめた。今までの気の強そうな様子は姿をひそめ、なにかにすがりつくような頼りなげな顔になっていた。 「だから、僕は清永くんに、出てきてほしいんです。彼だけが、上森先生を有罪にできる僕らの切り札だ」 「どうして? 君と純平はなにが違うんだ」 「年齢ですよ。被害者が十三歳未満の児童だった場合、暴行や脅迫を利用していなくても加害者の罪が成立するんです」  大介は一瞬、目の前の景色が遠くへ吹っ飛んでいくような感じがした。  十二歳。  たった十二歳で。 「久我さん! コーヒー!」  坂下の声で我に返った。テーブルが大介がこぼしたコーヒーで茶色の水たまりができていた。来ていたジーンズにも染みていた。  それを見てやっと火傷しそうな熱を感じた。 「あつっ」  あわててハンカチで吸い取る。 「大丈夫ですか。水。冷やさないと」 「いいから。全部聞かせてくれ」  大介は、立ちあがりかけた坂下を、むりやり座らせた。自分の白いハンカチがみるみる茶色に染まっていく。 「……やっぱり、よくご存知ないんですよね。清永くんは、恋愛だったって言い張ってますけど、正直、久我さんはどう思われますか。十二歳と五十四歳ですよ。これは恋愛ですか? 犯罪ですか?」  坂下は青ざめた顔で続けた。 「僕が清永くんを説得したいもう一つの理由をお話しします。それは、清永くんが『恋愛だった。先生を好きだった』って言うおかげで、被害を受けた僕らもひっくるめて、同意があった、先生にそうされるのを望んだ、と世間から思われることです。僕は、僕は――自分から誘ってなんかいないし、先生とそうなってもいいと思ったこともない。清永くんだって、本当はいやだったはずなんですよ!」  もう耐えられない、といいたげに坂下が叫んだ。  大介はまだひどい目眩の中にいた。世界が自分をあざ笑っているようだった。  十二歳で、一方的に男を受け入れさせられた。それを恋愛だった、と純平は信じてきた。信じようとして生きてきた。  ――先生はたったひとり、僕に愛を教えてくれた人だったんです。  十二歳。純平の兄が死んだ年齢だ。なにか意味があったのだろうか。自分が生き延びてしまったことに、罪悪感でもあったのだろうか。  ――僕が汚い人間だとわかったら嫌いになりますか?  純平がずっと茨で覆ってかくしてきたことは、不倫の事実ではなくこの不自然な年齢差と、自分にされた行為の本質なのだろうか。 「清永純平はまちがいなく被害者ですよ。お願いです。そうだと言ってください、久我さん!」  うなだれる大介を坂下がゆさぶる。  玄関のチャイムが鳴った。 「清永くんですか」 坂下がさっと立った。 「いや……純平には、合い鍵を持たせてる」 「じゃあ……」  坂下の肩に手をついて、大介はなんとか立ち上がった。インターフォンのカメラに移ったのは、翼の父、上森良平だった。意外と早いお迎えだった。せっかくのクリスマス、親子の時間も持ちたかったのだろう。  大介は玄関に出て、ドアを開けた。  後ろには、なぜか坂下がついてきていた。 「ああ、すみません、翼くんは今、純平とジュース買いに出たところなので、中でちょっと待っててください」  大介は平静を装って招き入れた。上森は仕事帰りでスーツ姿だった。革の鞄をさげている。 「すみません、では、お言葉に甘えて少し待たせてもらいます」  愛想良く会釈をして、靴を脱ごうとした 「上森さん、ですよね」  坂下がぞっとするような低い声を出した。  上森がかがんだ姿勢のまま、はっと顔をあげた。大介の影になっていた青年のほうを見る。 「あの――まさか。どうしてここへ」 「それはこっちの台詞ですよ。ここは、清永くんのパートナーの家ですよ。なぜあなたがここにいるんですか? どういうことか、説明していただけますか?」  坂下は綺麗な顔に憎悪をたたえて、翼の父をにらみすえていた。

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