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第28話
翼を中へ入れた。
迎えにきた父親にとびつき、今日の楽しかった話を始めた。せっかく買ってきたシャンメリーをあけてやりたいが、もはや誰もそんな気分にはなれなかった。
純平はマンションのドア前まで、一緒に来たという。それから翼に、これを大介さんに渡して、と握らせてその場を立ち去ったという。
翼が持っていたものコンビニの買い物袋と、白い紙の包みだった。大介さんへ、と表書きしてあった。純平がコンビニで買ったメモ用紙に手紙を書いたようだった。手紙の中心からぽろりと、キーホルダーから外された合い鍵が落ちた。
大介は頭をかかえた。
「なんて言ってた? 純平は翼くんになんて言って別れた?」
翼を怖がらせないようにできるだけやさしくたずねた。
「純平は僕を守ってくれるって。ママは帰ってくるよって」
上森が肩を震わせて声もなく泣き始めた。
「純平は行かなきゃいけないところがあるんだって。それと――あのね、駐車場に知ってる人の車があるから、今頃きっと大介さんとお話してるだろうって」
坂下が自分のことだと気がついたようだ。
翼はよく思いだそうと、瞳を上へあげて一生懸命考えている。
「それで、僕が『純平、帰らないの』って訊いたらこう言ったんだ。『僕、大介さんにどんな顔して会えばいいのか、今ちょっとわからないんだ』」
大介はもう一度マンションの周囲を走ってまわったが、純平の姿はみつからなかった。楽しげなクリスマスソングが、あざけるように街中で鳴っている。
とぼとぼと部屋に帰った。
坂下が帰り、上森と翼も帰っていった。
パーティーの名残だけが残る部屋で、ひとり純平の手紙を開いた。
『大介さん、今頃は坂下さんから詳しい話をきいている頃でしょうか。
大介さんにどうしても一言だけ謝りたくて。でも会うのが恐いので手紙にします。
僕はこの九年間、上森先生から愛されたんだと信じて生きてきました。
でも僕はこの二ヶ月、大介さんと一緒にいて、本当に相手を大切にすることがどんなことなのかを知りました。だから、今は先生が僕にしたことがなんなのかわかります。あれが愛なんかじゃなかったことに気がつきました。僕は、あのときものすごく孤独で愛情に飢えていたから、偽物の愛でもわからなかったんです。いえ、本当はわかってたかもしれません。でも偽物でもよかったんです。痛くても苦しくても恥ずかしくても、それでもなんにもないからっぽよりは、よかったんです。
でも僕は、翼くんの生活を守りたいと思っています。大介さんが、自分より弱いものを守っているのを見て、そう思いました。僕も大介さんみたいに強くなりたい。やさしくなりたい。
それは一方から見ると、卑怯なことかもしれません。先生をかばうことですから。坂下さんや、今も性暴力に苦しむたくさんの人に対しての裏切りかもしれません。
それでも僕は、翼くんをひとりぼっちにしたくない。我慢して「平気だよ」ってつくり笑いをするさびしい子供になってほしくありません。翼くんはとってもいい子です。そのままピュアなまま、幸せに生きてほしいです。
先生じゃない。あなたが僕に本当の愛を教えてくれた。今の僕にはそれがわかります。僕はとても幸せだった。でも大介さん、僕はたぶんあなたの思うようなピュアな人間じゃない。
いっぱい自分をごまかして、自分にもまわりの人にも嘘をついて、強がって生きてきました。だから、大介さんに出会ってからは、意味不明なことしては困らせてばっかりでしたね。あなたに裸の僕を見られるのが恐かったんです。「ゆっくり恋愛したい」なんて自分から言っておいて、本当は愛なんて知らないみじめな自分を知られるのが恐かった。卑屈で、弱くて。でもあきらめずにつかまえてくれるあなたが
あなたが、好きで
あなたを、あきらめきれません。今でも』
手紙にはインクがにじんだ部分と、濡れて紙がよれた部分が点々と散っていた。純平は泣きながらこの手紙を書いたのだろうか。最後のほうは文章も文字も乱れていた。その震える筆跡を、大介は心に刻む。この世界に裏切られても、裏切られても、なお人を愛そうともがき続ける純平の筆跡を。
大介は机に伏して号泣した。
※ ※ ※
聖夜のイブだというのに廃墟は静まりかえっていた。
大介は、入り口のフェンスを跳び越え、ガラスの割れた扉からするりと中へ入った。懐中電灯をつける。
ホコリまみれの廊下には、三つの足跡が残っていた。坂下のはいていたスリッパ。弁護士上野のビニールをかけた革靴。そしてランニング用のスニーカー――純平の靴だ。
ビンゴ。大介は見慣れた靴底の模様に微笑んだ。
一番あたらしい足跡にそって、廊下を歩いた。職員室だったのか少し広い部屋をとおり、その先の部屋へ着く。そこは扉ののぞき窓にもカーテンのかかった部屋で、おっこちかかった教室の表示板には「医務室」と書いてあった。スニーカーの足跡はそこへ向かっている。
大介はきしむ扉を開けた。
甘い花の香がした。純平が床に座っていた。あちこちにキャンドルが灯されている。
ビニールをかけた診察用ベッドに、血のように赤い花びらが敷き詰められている。
蝋燭のあかりで見る純平の顔は、玲瓏としてこの世のものではないようだった。無言で大介をみつめている。
「僕がここにいるって、わかったんですね」
純平は、うっすらと笑った。
「ふたりでここに来た時、坂下が出てきて全部うやむやになったからな。純平がやり残したことがあったんだろうって思って」
純平は花の祭壇になった診察台を見た。
「ここに、十二歳の僕は寝てたんです」
大介は痛ましげに目を閉じた。
「先生の体の下で、行為が終わるまで、この天井の模様をじっと見ていました。きっとこの幾何学模様を一生忘れないだろうって思いました」
今はそこにたくさんの花と花びらが敷いてあった。赤い薔薇とポインセチアの赤い葉のようだった。今日のような夜に手に入る花の種類はかぎられていたのだろう。ところどころに砂粒のようなラメがまぶしてあって、蝋燭のあえかな光をちらちらと反射していた。
花の種類さえ違えど、ぎっしりと埋め尽くした様子は、まるで故人の納棺のときのようだ、と大介は思った。
「僕、あの日ここへあなたを連れてきて、なにをしたかったか、思い出したんです」
「なに?」
「僕のお葬式です。十二歳の僕の」
そしてはかなく笑った。
「ずっと弔ってあげたかったんです。傷だらけになって、それでも一生懸命生きた自分を。もういいよ。頑張らなくていいよって。苦痛のない寂しくない、全部満たされた世界へ旅立たせてあげたかったんです。そうして、昔の自分にさよならをしなきゃって、思っていたんです」
そうか、とうなすく大介の声も鼻声になっていた。
「それじゃ、十二歳の純平をいっぱい悼んであげなきゃな。よく頑張ったね。苦しかったねって」
「僕、自分で可哀想って思ってもいいですか?」
大介はうなずいた。
「可哀想だったんだ。お前は可哀想だったんだよ」
純平は声をあげて泣き崩れた。ずっと我慢して生きてきた少年の涙が、今純平の体から押し流されて出てくるようだった。
大介はそれをやさしく見守った。
今が幸福だから、可哀想だとわかるのだ。
純平が愛を知ることは、愛されていなかった、という過去の事実と向きあうことだった。
大介は、強く成長したうつくしい青年のそばにかがみこんだ。泣き続ける純平の肩を抱きしめる。首にまわった腕に、純平は顔を埋めた。
その時、蝋燭の明かりが一瞬明るく燃え上がった。花びらがきらきら光った。花にうずもれた十二歳の少年が、やっと世界に微笑むような気がした。
さよなら、過去の悲しい少年。
そして、一緒に今を生きよう。
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