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冬の雨 第1話(春海)

 冬の朝は遅い……  春海は、まだ星が瞬く空を見上げて、白い息を吐きだした。  ピリッと冷えた空気が肌を刺す。  冬の朝の澄んだ空気が好きだ。  目を閉じて、ゆっくりと冬の空気を吸い込む。    よし、今日も頑張ろう!  頬をパチンと軽く叩くと、部屋に戻った。 *** 「足元気を付けてくださいね」  春海は老齢の常連客を見送るためにドアを開けた。 「ぅう……年取ると寒さが堪えるねぇ……」 「風邪引かないようにね。ほら、ちゃんとマフラーもして!」  寒さに身を竦めた常連客の手からマフラーを取って、首にしっかりと巻き付けてあげる。 「うん、りっちゃんありがとね。なんだか、雨が降りそうだねぇ。じゃあまた」 「そうですね……ありがとうございました!」  冷たい風に混じって、微かに雨の匂いがした。  村雨さん来るかな……  ――春海は、大通りから少し入った所にある『カフェ・レインドロップ』の店主だ。  春海の恋人である村雨は、雨の日にだけ春海の店にやってきていたお客だった。    付き合うようになってからは天候に関係なく、ほぼ毎日のように店に来てくれるようになったが、今でも雨が降ると条件反射で村雨を心待ちにしてしまうのだ。  あぁ、今日はこの近くには来ないって言ってたっけ……  夜は来てくれるかなぁ……  ぼんやりと考えながら窓の外を見ると、いつの間にか雨が降り始めていた。  結構降ってるな。  村雨さん、大丈夫かなぁ……  その時、店の電話ではなく春海の携帯が鳴った。  あっ! 「はい、村雨さん!?」 「あ……春海さん?今、電話大丈夫ですか?」 「今はお客さんいないので大丈夫ですよ」 「そか……」  電話の向こうで、村雨がほっと安堵のため息を吐いた。  少し声に元気がないな……  村雨は、過去の辛い出来事のせいで泣けなくなっていた。  雨の日になると、その出来事を思い出して仕事にならない程に体調を崩していたのだが、春海と出会って泣けるようになってからは、雨の日もあまり体調を崩さなくなった。  それでも、過去の出来事が辛いものであることには変わりない。  ふとした瞬間に思い出して具合が悪くなることがある。  店に来られればいいのだが、仕事の都合でどうしても無理な時は、こうやって電話をかけてくる。 「雨、結構降って来てますね」 「あ~……うん、そうですね」  いつもは村雨の方がよく喋るのに、今日は口数が少ない。    やっぱり雨のせい……かな? 「あの……具合どうですか?」 「ん~……春海さんが「大好き」って言ってくれたら元気になれそうな気がします」  村雨が真面目なトーンでポツリと呟いた。 「へ!?」  今までにも村雨に何回も言ったことがある言葉だが、改まると緊張する!  でも、冗談じゃなさそうだし、それで元気になれるって言うなら……  お客さんは誰もいないのに店内をキョロキョロと見回すと、その場にしゃがみ込んだ。 「あの、あの……だ、だ、だぃ、だ……ぃ…………き……」 「っていうのは冗談ですけど……って、今何か言いました?」  村雨が急に明るい声を出した。 「ぇええ!?あああの、ななななんでもないですよ!?」 「ならいいけど……春海さんの声聞いたらちょっと楽になりました」 「そ、そうですか……ソレハヨカッタデス」  冗談って……冗談って!!頑張って言ったのにぃいいいい!!!  村雨さんには聞こえてなかったみたいだけどっ!!  思わず壁に手をついてがっくりと項垂れた。 「春海さん?どうかしました?」 「いえ……あ、え~と……村雨さん今夜は会えますか?」 「はい、仕事が終わったら会いに行きます」 「あの……じゃあ……何か食べたいものありますか?今日は昼から少し買い出しに行くので、今ならリクエストに答えられますよ」 「食べたいもの……」 「はい、いつもわたしが家にあるもので適当に作っちゃうから、たまには……」 「春海さん」 「はい!……って……え?」 「春海さんが食べたい」 「……そっ!?……れは……あの……えっと……」  思わず声が裏返った。  わたしが食べたいっていうのは……つまり……そういう……ことですよね!? 「ふっ……っくく……っ」  なんと答えたらいいのかわからず固まっていると、電話の向こう側から村雨の押し殺した笑い声が聞こえた。 「あ、ちょっと!!またからかったんですか!?」 「ごめっ……っははは!」 「もぉ~!!笑いすぎです!!リクエスト聞きませんよ!?」 「ああ、ごめんなさいっ!え~と、じゃあ……グラタンが食べたいです!」  村雨がまだ少し笑いながら、話を戻した。 「グラタンですね、エビとかチキンとか具材はどうします?」 「ん~、春海さんが作ったものなら何でも美味しいから任せます」 「はい、わかりました!」 「……春海さん、ありがとうございます」 「ん?あ、はい……え、何が!?」 「ふふ……なんでもないですよ。それじゃそろそろ仕事戻ります。また夜に」 「……はい、また後で――」  何でわたしがお礼言われたんだろう……  それより村雨さん、ちょっとは元気出たのかな?  村雨は、春海にあまり弱音を吐かない。  でも、雨の日だけはちょっと甘えてくれる。  それなのに、いまだに村雨にドキドキしっぱなしの春海は、自分のことで精一杯で上手く甘やかせてあげられない。  春海の方が年上なのだから、しっかりしなければと思うのだが……  ダメだなぁ……さっきも結局何も村雨さんを元気づけるようなことを言ってあげられなかったし……  全然色気のない返事ばかりだし……そりゃ笑われちゃうよね……  春海はため息を吐きつつ待ち受け画面の村雨の笑顔をそっと撫でた――   ***

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