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第9話

 アンナはデリヘルを辞めた。鷲尾以外に触れられる事に嫌悪感を感じたのだ。  オーナーは強く引き止めはしなかった。 『困った事があったら、いつでも頼れよ』  そう言って、餞別までくれた。 (そう言えば、鷲尾さんもそんな事を言ってくれた事があったな……)  鷲尾との別れから一ヶ月近く経ったが、鷲尾からの連絡はない。もう自分は必要がなくなったのか、結婚の準備が着々と進んでいるのか、鷲尾が今何を思い何をしているのか、アンナには検討はつかない。もうきっと、このまま鷲尾とは会う事はなくなるのだろう、そう思っていた。  アンナは肩まであった髪をバッサリと切った。失恋した女性が髪を切る気持ちが分かる気がした。髪を切った事によって、随分と気持ちに区切りがついたようにも思えたが、鷲尾への想いは消える事はなかった。  デリヘルをやめ、アンナはコーヒーショップでアルバイトを始めた。初めてデリヘル以外の仕事に携わったが、思いのほか順調だった。スタッフとはアンナの物怖じしない性格が幸いして、すぐに打ち解けた。その上、ハーフの美男子という事もあり、イケメンのいるコーヒーショップと噂になり女性客が増え、結果売上げにも貢献していた。  鷲尾と過ごした日々に、いつもコーヒーの香りがあった。香ばしいコーヒーの香りと鷲尾がいつも吸っているタバコの香り。せめてのその匂いに包まれていたいと思った。  その日、バイトを終え携帯を見ると自分の目を疑った。鷲尾から着信があったのだ。時間は三十分程前だ。慌てて折り返すと、ワンコールで鷲尾は出た。 「わ、鷲尾さん?」 『おう、元気だったか?』  低くしゃがれた鷲尾の声を聞いた瞬間、鼻の奥がツンとし、視界がボヤけ始めた。 「ほん、とうに……鷲尾さん?」 『俺の声忘れちまったか』 「忘れるわけないよ」  少し沈黙があり、何か言わないと切られてしまうのではないかとアンナは言葉を探した。 『今から会えないか?』  鷲尾からの言葉にアンナは、 「会いたい……」  迷う事なくそう言った。  コーヒーショップの駐車場に、見覚えある黒塗りの車がアンナの目の前に停まった。  運転席のウィンドガラスが開き、オールバックに咥えタバコという見慣れた姿の鷲尾が顔を出した。  たった一ヶ月なのに、もう何年も会ってなかったような気持ちになる。 「乗れよ」  そう顎で助手席を指すと、アンナは助手席に乗り込んだ。車が走り出すと、アンナは途端に落ち着かなくなる。 「髪、切ったんだな」 「え? あっ、うん……変かな?」 「いや、似合ってる。長いのも悪くなかったが、今の方が俺は好きだ。元々いい男だったけど、それじゃ女が放っておかないな」  そう言って薄っすらと笑った。  好きだと言われたのは髪型だと分かっていたが、《好き》というその言葉に嬉しさが込み上げてくる。 「店、辞めたのか」 「もしかしてお店に電話した?」 「ああ、電話したら辞めたって聞いて、正直ホッとした」  なぜ、ホッとしたのか理由を聞きたい。だが、アンナが求めている答えではないかもしれないと思うと、聞く事ができなかった。  信号が赤になり、鷲尾はジッとこちらに目を向けている。その視線が突き刺さるように感じる。あんなに会いたくて顔を見たかったのに、顔をまともに見る事ができない。 「仕事、辞めてくれて良かった」  鷲尾はそう言って、アンナに触れるだけのキスをした。 「⁈」  思いもよらぬ鷲尾の行動と言動に、終始アンナの頭は混乱した。

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