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第8話 Happy birthday
長い夏の休暇の間、ボリソヴォ湖でのバカンスを楽しんだ後、私と彼は相変わらずの課題と取り組む日々に戻った。
ある日、図書館に出掛けるために、カフェで待ち合わせをしていた時、私はやってくる彼の様子がいつもと違うことに気づいた。
ほんの少し眼を伏せて、心なしか元気がない。しゅん.....として叱られた時の仔犬のようだ。
「どうしたの?」
私は黙りこくってコーヒーをすする彼に、躊躇がちに訊いた。
「なんでもない。......オヤジが仕事でハバロフスクに行ってるだけさ...明日には帰るし」
ラウルの返事はどうにも歯切れが悪かった。私は重ねて訊いた。
「オヤジさんが、ハバロフスクに行くのは初めてじゃないだろう?....ラウル、私達は友達だろう?話してくれないか」
しつこく尋ねる私に、彼はしぶしぶと口を開いた。
「二十歳になったんだ。今日....日本じゃ二十歳で成人なんだぜ」
私はほっと胸を撫で下ろした。独りぼっちの誕生日なんて、彼に過ごさせるわけにはいかない。
うんと楽しい思い出を作ってやらねば......私は、ありったけの笑みを浮かべて、彼の肩を撫でた。
「おめでとう、お祝いをしなきゃ。うんと豪勢なディナーを予約しよう」
そう言うと、彼は嬉しそうに、だが半分泣きそうな笑みを浮かべて、首を振った。
「ディナーなんて、緊張して味がわからなくなるから、いいよ」
「じゃあ、ケーキを食べてお祝いしよう」
彼はほっとした顔で頷き、私達はさっそく行き付けのケーキショップへと急いだ。
が、生憎、ケーキは皆、売り切れ状態で、小さなサバランひとつしか残って無かった。
「これでいいかな?」
せっかく、誕生日に相応しい華やかなケーキを買いたいと思っていたのに.....私はとても済まない気持ちになって、彼を見た。が、彼は天使のような笑みを浮かべて
「充分だよ」
と笑った。
私達は、その小さなケーキをひとつ買って、私のアパートに帰った。
私はケーキに小さな蝋燭を立てて、心を込めてハッピーバースデーを歌った。
それから、ケーキを半分こして食べた。彼にはサバランの洋酒がちょっときつかったらしく、一口目を思わず噎せていた。
私はその様子が余りに可愛らしくて、つい頬が緩んでしまった。
「可愛いね、ラウル」
それから私達は、勉強を休んで彼の好きな映画を二人で見に行った。派手なアクションが売り物だったが、ストーリーも悪くなかった。
ー外食は贅沢すぎるー
という彼の主張を尊重して、テイクアウトの惣菜を買い、冷蔵庫を開けて、有り合わせの食材で夕飯にすることにした。幸いにも、先日買い出ししたばかりの野菜と邑妹(ユイメイ)が届けてくれたローストビーフがあった。
惣菜を皿に盛り、軽く野菜をボイルして、ローストビーフを切り分けて、ビールで乾杯をした。
軽く酔いが回ったらしく顔を赤くして、彼は嬉しそうに惣菜やビーフにかぶりついていた。
その様子は、本当にご馳走に歓喜する仔犬のようで、私は思わず目を細めて彼をみつめていた。そして、ふと思い付いた。
「せっかくだから、ロシア語のフレーズをひとつ、覚えよう」
「なに?」
彼は、きょとんとした眼差しで、目をくりくりさせながら、私を見た。
「Я хочу быть с тобой всегда(ずっと傍にいて欲しい)言ってごらん?」
私は内心、胸をドキドキさせながら言った。だが、彼は実に真面目くさった顔で、私の言ったフレーズを繰り返した。
「Я хочу быть с тобой всегда......どういう意味なの?」
「ずっと傍にいて欲しい.....だよ。私はずっと君の誕生日を一緒に祝いたい」
「ありがとう......ミーシャ」
彼は耳の付け根まで赤くなりながら、とても嬉しそうに頷いた。
私達は、その夜も遅くまで語り合った。すやすやと隣で眠るラウルに欲心に負けないよう、自制心を総動員した私は、やや寝不足だったが、気持ちはとても満ち足りていた。
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