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第9話 緑陰
私とラウルのレッスンはロシア語の会話から詩や小説の観賞など、ロシア語とロシアの文化を理解する方向に展開し、彼の日本語のレクチャーは漢字の読み書きや表現、使い方のニュアンスが主だった。が、とにかく日本語は繊細で奥が深い。
同時に、彼は養父の趙から幼少期から習っている中国語や英語の表現も交えて一生懸命に説明してくれるので、相当に得をした気分になる。
「オヤジの出身は香港だから.....」
英国の植民地だった香港では英語と中国語の両方が使えるのが普通なのだとか......。
「オヤジが俺を日本で育てたのは、一番安全で、教育の費用が安かったからなんだって.....俺は半分は日本人だし、母国語は大事にしろって」
「ではなぜロシア語を?」
私の言葉に彼は半ば不思議そうに答えた。
「オヤジのお得意さんはロシア人が多かったんだ。日本にいた時にも、オフィスにしょっちゅうロシア人が来てたから、ロシアでも商売できるように....って」
おそらく日本の趙のオフィスに来ていたのは、KGB ......現在はロシア諜報局の人間だろう。趙がラウルをエージェントとして育てるつもりなら、外国語に堪能であることは必須条件だ。
ーかなりの英才教育だな.....ー
私は内心、舌を巻いた。と同時に、彼にエージェントなどという『危ない』仕事などさせたくない、と強く思った。
「ミーシャは?日本語は好きそうだけど、他の外国語は?」
「英語もドイツ語もわかるよ。フランス語はいまいちだけど.....」
「え?凄い!.....なんで?!」
ラウルが眼を丸くして訊いた。
「小さい頃は、スイスの寄宿学校に入れられてたんだ。九才からだけど....。ロシアの学校には飛び級が無かったからね。大学はベルリン大学に行った。十五才で合格したから....。一昨年、モスクワ大学の大学院に合格したから戻ってきたんだ」
「すげぇ......天才じゃん!」
「勉強しか能が無かっただけさ」
私が九才でスイスの学校に入れられたのは、母親の裏切りで危うく殺されかけた私の身の安全を確保するためだった。母親に裏切られ、父親にも遠ざけられた私には学問より他に心の拠り所が無かった。大学時代にも友達を作ることが得意でなかった私は、美術館に通いつめ、そこで東洋の美に出会った。
優しいたおやかな造形に心を揺さぶられた。
「勉強も大事だけど、せっかく天気がいいんだ。少しは日に当たらないとカビが生えちまう」
彼はそう言って、バスケットにサンドイッチや揚げパン、サラダを作ってきて、コーヒーのポットを片手に、よく私を公園に誘った。
シートを敷いて、アカシアの木の下で爽やかな風を受けながら、テキストを広げて過ごした。
「ここの夏は涼しいから好きだ。冬は寒すぎるけど.....」
ラウルはそう言って、白い歯を見せて笑っていた。眩しかった。
勉強に疲れて、木の幹にもたれて居眠りをする彼のふっくらとした頬に緑の葉が優しく陰を落とす。心地よい風に吹かれながら、伏せられた長い睫毛が揺らめいて、小ぶりな可愛らしい唇が、時々、むにゅむにゅと蠢く。きっと楽しい夢を見ているのだろう。
短い夏の深い緑陰の下で、いつまでも彼とこうして穏やかに過ごしたかった。
出来れば、マフィアなどにも足を突っ込ませず、このサンクトペテルブルクで、普通の暮らしをして欲しい.....と心から思った。
堅気の貿易商で、小さくていいから自分のオフィスを構えて、まっとうな商売をして.....。時折、私が訪ねて行けるような、そんな暮らしをしてくれたら.....夢であってもそう願わずにはおれなかった。
私は、胸のざわめきを抑えながら、彼の寝顔をじっと見つめた。
我慢出来なくなって、震える唇をそっと薄桃色の頬に寄せてキスしたのは、永遠に秘密だ。
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