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【第1章 うさみみモード】第1話 動物病院の院長先生
「宇佐見さん、ユイちゃん、中へどうぞ」
動物病院の待合室に、事務的な女性の声が響いた。名前を呼ばれて立ち上がったのは、Tシャツにデニムパンツの小柄な青年だが、まだ少年と呼んだ方が良いくらいの風貌だった。宇佐見光 は可愛らしい容姿の持ち主で、実は女の子ですと言われても、あまり問題はなかった。うさぎの入ったキャリーを手にしている。
待合室はだいぶ混んでいた。
光の座っていたすぐ横には、帰りたがってきゅんきゅんと鳴いている大型犬がいたり、そのまた隣には飼い主の膝の上でにょろりとうねっているフェレットがいたりして、耳の垂れたうさぎのユイは、狭いキャリーの中で縮こまっていた。呼ばれて光はほっとする。
自然界においてうさぎは捕食される側の為、例えば他の動物にその気がなくとも何も起こらないとは限らない。自分以外の気配に身を硬くしているユイの存在は非常に哀れだ。光は逃げ込むように診察室に入っていった。
「こんにちは、宇佐見くん。その後ユイちゃんの調子はどう?」
にこやかにうさぎの体調を尋ねてくる獣医師は、長身の色男で白衣に眼鏡がよく似合う。胸元には「神崎」というネームプレートが付けられていた。動物病院の院長、神崎悠司 だ。
悠司はキャリーから出たがらないユイを中からひょいとつまみ出す。光が抱っこしようすると嫌がるユイも、院長先生にかかっては簡単にその手中に落ちる。
「おかげさまですごい元気です。爪切りも出来ないくらいで。お願いします」
「そっか、元気なのは何より。おーい、誰か保定して」
悠司が呼ぶと、奥からスタッフが出てきた。ユイを動けないようにタオルでくるんでしっかりと保定する。爪を一本切られるたびに肉球のない足がぷるぷると震える姿に、光は思わずうわずった。
(ユイ……ユイ……食べちゃいたい)
今はすっかりと生えそろった白いお腹を光に見せるうさぎは、可愛くて仕方ない。あまりに可愛くて、涙さえ滲むほどだ。友人にそれを言ったら「うさぎ馬鹿?」と冷ややかな目で見られたが、光は一向に気にしない。
数ヶ月前、ユイは子宮を切除する手術を受けた。
避妊手術は生後半年くらいでした方がいいと言われていたのを、どこも悪くないのにお腹を開くなんて、と躊躇しているうちに時間だけが過ぎ、病気になってからの手術になってしまったのだ。
しかも脂肪がつきすぎて手術出来ないと言われ、地道にダイエットまでさせた。早くなんとかしてあげたいのに出来ないもどかしさと、可愛いからと言って太らせてしまった飼い主としての責任に、光は苛立ちと後悔を覚える。
その時にユイを救ってくれたのが悠司だった。
だから光にとって悠司はとても信頼の置ける人間で、命の恩人だった。爪切りがてらにユイを診て貰うのが、月に一度の習慣となっていた。病院の待合室はユイにとって歓迎すべき場所ではなかったが、定期的に検診してもらうのは大切だ。
二度と痛い思いをさせたくはないから、常に健康状態に目を向けていなければ、と強く思うのは、手術前に同意書にサインした時の恐怖からかもしれない。
万が一手術で死んでしまっても仕方ない、という同意書だ。
勿論悠司は、そんなに難しい手術じゃないし、大丈夫だろうけど、と付け加えた。
けれど、万が一が起こったら? 万が一というのは、死の可能性がゼロではないということだ。それを思うと、二度と手術なんてさせたくない。だから光はユイを病院に連れてくる。
悠司に会いたいから、というのもあったが、それはあまり深くは考えないようにしていた。
悠司は恩人。
それだけで十分だった。それ以外何があるというのだ。
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