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第2話 ゴスロリ
土曜の夜だけ足を向けるこの店は、光にとってとても居心地の良い場所だった。店の名前はアクロと言って、悪路が由来らしい。もう少し違う名前でも良かったのではないだろうか。
店内はそう広くもない。客が五、六人も入れば今日は混んでいると感じる。ママの趣味で大抵ラウドロックが流れている。
入るとカウンターの中の悦子 ママが、いつものようにお客と他愛のない話をしながら飲んでいるのが見えた。ママの他にいるスタッフは大体三人くらいだったが、全員揃っていることはあまりない。
「繭 姉、こんばんは」
入り口の傍に着替えの出来る部屋があるのだが、光はそこへは寄らずに繭に挨拶した。
「あらーユイちゃん、今日も可愛いのね。新しいワンピ?」
「うん、バイト代入ったから買っちゃったの。似合う?」
ユイと呼ばれた光は、嬉しそうに繭の前でくるりと一回転してみせる。
ひらひらのレースとリボンがついた、ふんわりとした黒地のワンピース。小柄ながら男である光が普段着るようなものではない、どこからどう見ても女物の服だった。しかし良く似合っていたことも事実だ。
繭は目の前のお人形さんのような光をじっくりと検分すると、「いいわあ」と心の底から呟いた。
「こういうのゴスロリっていうんだっけ? あたしももうちょっと小さくてユイちゃんみたいに愛らしい系だったら、そういうの着ちゃうんだけどねー」
羨ましそうに光に触ったり抱きつきながら頬ずりしている繭は、どちらかと言うとシンプルなスーツが似合うビジネスウーマンタイプだ。光よりも頭ひとつ分は背が高くて、女性にしては長身の部類に入る。抱きつかれた光は逆に、押し付けられてくる大振りの胸に羨望の目を向けていた。
言うまでもなく、光の胸はぺたんこだ。平坦で薄い胸板は男のもの。繭のように柔らかな膨らみは憧れの対象だった。それは異性として女性の体を求めるのとは違う、「自分もそれが欲しい」という類のものだった。
「繭姉、その胸っていくらくらいかかるの?」
光の問いに、繭は耳元に顔を近づけてこっそりと金額を教えてくれたが、すぐに笑いながら体を離した。
「やめた方がいいんじゃない? ユイちゃんはそのままのが可愛いし、メンテナンスもしなくちゃなんない。どうしてもおっぱいが欲しいっていうんなら、止めないけど……」
言葉を濁した繭に、光は曖昧に頷いた。
どうしても欲しい、というわけではない。
第一現実問題として、手術してしまったら学校に行くのにも不都合だし、親だって黙ってはいないだろう。ただ、憧れてしまうのは仕方なかった。
女の子に生まれてくれば良かったのにな、と光は19年生きてきて思う。
顔は女の子みたいだし、体型も男らしいとは言えないコンパクトさだ。そのマスコット的な愛らしさに周囲の女の子から人気はあるが、それは愛玩動物を猫可愛がりするようなもので、彼氏にしたいタイプとはまた違う。
光が女装する時は大抵自宅からだが、誰も奇異の目は向けたりはしない。自然に女の子に見えるからだ。そこには何の無理もない。それでもやはり男は男だし、繭のように手術する勇気も貯金もなかった。だからたまにこうして、女装してこの店に来る。ここに来れば仲間がいる。気分が楽になる。
「あ、いらっしゃい」
繭が甘えた声でやってきた客を迎えたので、光は悦子ママのいるカウンターに行って、ちょこんと椅子に腰掛けた。繭とのやり取りを聞いていたママが、光にチェシャ猫のような笑みを向けて「乳がありゃいいってもんじゃあないのよ」と頭を撫でた。
悦子ママも繭も、光のことをすごく可愛がってくれる。まだ未成年の光に、いつものでいい? とダミ声で確認してグレープフルーツを絞って出してくれた。
「ありがとママ」
自分の父親より年上の悦子ママは、昼間会えば頭も薄くなりかけの、出たお腹を気にしているおじさんだ。しかし夜のママは、小太りながらもそれなりに綺麗に化粧して、お客にママ、ママと慕われる気のいいおばさんだった。
「そういや悦子ママ、旦那さん元気? 最近見ないわよねえ」
隣にいた常連客のテルミさんが切り出したので、光はちょっとびっくりした。
「えっママ旦那さんいるの?」
「それがさあユイちゃん、イケメンの20歳も年下の男なのよ。ママのどんなところに惚れたのかわかんないけど、物好きよねえ。私の方が絶対美人なのに。奪っちゃおうかしら」
なんだか悔しそうに教えてくれるが、本気で言っているわけではない。ママも軽く受け流して、失礼ねえ、なんて笑っている。
「うちの旦那はホストだから、今頃はよその女に媚でも売ってるんでしょうよ。憎らしいったら」
「惚れてるくせに」
「惚れてるのは向こうよ」
「どうだか」
楽しそうにママの旦那さんを肴にしている二人を尻目に、光は無意識にため息をついた。
それは純粋にママが羨ましかったからではあるのだが、ありのままの自分を受け入れてくれる相手がいるのが羨ましかっただけで、旦那さんや彼氏が欲しいからではない。
女の子に生まれてくれば良かった、とは思うが、男が好きなわけではない。
……多分。
光はもう一度、深いため息をついた。
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