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第22話 今はもう存在しない空
一月二〇日の午前。
光は尚志の家を訪れていた。部屋の暖房は控えめだった。相変わらず画材の匂いが漂う彼の部屋で、光は絵のモデルをしている。二十歳になったばかりのおまえを描きたい、とか言われて、前から約束していた。
夏に色々あった。お互いが少し離れている間に、別の人間と関係を築き上げてしまったりと、すれ違いが発生した。
「柴田、最近ちゃんとしてんの?」
「あ? 何が」
絵に集中している時の尚志の顔は、とても真剣で好きだった。しかし意味不明の質問を投げ掛けられて、彼は眉を寄せる。
「雅宗 さんだっけ」
「……ああ、たまに会うけど」
雅宗というのは、夏に尚志の部屋で見た男の名前だ。尚志はこの雅宗と色々と複雑な経緯があったようだが、その後どうなっているのか知らない。
「たまに? 付き合ってるわけじゃないの」
「疲れたんなら休憩すんぜ。だりい質問すんじゃねえよ」
尚志は立ち上がると一度腕をクロスさせて伸びをした。多分休憩の為に飲み物か何かを取りに、階段を降りて行く。
(付き合ってるのかなって、思ったけど)
違ったのだろうか。
まあ、たまに会っているのであれば、多分やることはやっているのだろう。
前にちらっと聞いてびっくりしたが、尚志は雅宗に対してベッドで攻める側ではないらしい。もしかしたらそういうのもあって、光にはあまり言いたくないのかもしれなかった。あくまでも、想像だが。
半年と少し前に初めて、この部屋で尚志に抱かれた。けれど今はとりあえず何もない。
柴田は友達だよ、と何度も繰り返した科白を改めて彼に伝えて、ひとまず体の関係を持つのはやめにしようと提案した。
自分で望んで尚志に体を預けたのに、また自分の身勝手でそんなことを言う。
けれど尚志は、少し不服そうにはしていたものの、ごねることもせずに「そっか」と返した。
その時は尚志にもそれなりの事情が発生していたし、了承してくれたのはそれほど意外でもなかった。
「……おまえこそ、先生とはどうなん」
グラスと茶菓子の乗ったトレイを片手に、尚志が戻ってきて光に振った。
「うん……僕ねえ、三月でアパートの契約切れるから、そしたら先生ん家で暮らすね。四月から就職するし、環境色々変わるなあ」
あっさりと言った光に、尚志は一瞬顔をむっと歪めたが、すぐに消えた。
「……ブライダル関連だっけ?」
「うん、とりあえずはそこで修行。花嫁さん綺麗にしてあげんの。すぐやらせてもらえるかはわかんないけど……頑張る」
二年間美容専門学校に通って、もうすぐ卒業だった。就職先が決まった時、尚志に最初に告げた。勿論ずっとそこで働くかどうかは不明で、もし出来るなら独立して自分で色々やりたいと思ってはいる。ただ、学校を出てすぐにそんなふうになれるだろう、というような甘い考えは光になかった。
「ま、頑張れよ。暇な時またモデルして貰いたいけど、それは平気か?」
「いいけど。……そうだ、柴田さあ。なんで僕に絵本のこと教えないわけ。しばらく気づかなかった。人に言われて気づくとか、滑稽じゃない?」
「ああ、わりぃ。単に言い忘れた」
尚志はまだ大学に通っている状態だが、去年ごたごたする前くらいに絵本を出版していた。描いているのは絵だけで、文章は違う人物による物だったが、そういうことを尚志は一切光に言わなかった。
それはいい。
とりあえずそれはいいのだが。
文章が著名な人物による作品だったからなのか、尚志の絵が良かったからなのかはわからないが、結構評判は上々らしい。それでまた去年の暮れに、もう一冊別の絵本を出していた。それもまったく聞いていない。
だから他人から言われるまで、全然知らなかったのだ。
「あれって、僕でしょ?」
「可愛く描けてるだろ?」
自分で持ってきたサイダーに口をつけながら、尚志はにやっと笑った。
尚志は光に無断で、二冊目の絵本の登場人物のモデルとして使っていたのだ。確かに頻繁に彼のモデルになってやってはいたが、そういう物を描くなら描くで、ちゃんと教えて欲しい。
「未雨 がさあ、もしかしたら俺の義姉ちゃんになるかもしんないから、そん時はおまえが綺麗にしてやってな」
未雨……と聞いて、一瞬止まる。
「絵本の文章の人でしょう、それ」
「おう。俺の上の兄貴が、そろそろ本気になるっぽい。なんだかこの前一人でエアプロポーズやってんの見た。笑えるわ」
詳しいことは知らないが、どうやら絵本の文章担当の女性と、柴田家の長男、尚生 が交際しているらしい。
「笑っちゃ可哀想でしょ。一生懸命なんじゃん」
「いやだって尚生だもん。笑うわ」
尚志の中の長兄像がどういう物なのか不明だが、尚志はそれを克明に思い出したのか、声を出して笑い始めた。
「いい加減に笑うのやめなよ。……そうだ、モデル料くれないの?」
「体で払おうか?」
冗談っぽく言った尚志は、自分の発言が不適切だったと思ったのか、すぐに訂正した。
「今の、なしな。……おまえが先生と駄目んなったら、めちゃくちゃ抱いてやっから。あああと、印税が入ったらモデル料払ってやるよ。今は金ないから無理ー」
「――何その上から目線」
ちょっと呆れたが、尚志のこういうところはわりと救われる。
ずっと友達でいてくれる、気がするから。
「そういや柴田はちゃんと成人式行ったの?」
「忘れてて行かなかった。電話かかってきて二次会だけ参加」
「そうなの……柴田も羽織袴とかわりと似合いそうだなって思ったんだ。地元の友達が、しててさ。かっこよかった」
「……袴はちょっと。昔振られた思い出がまざまざと蘇る」
何故か尚志は嫌そうな顔をした。何故袴で振られた思い出と繋がるのかわからないが、尚志にも色々あるのだろう。恋愛経験が豊富そうだ。
「何時までいられんだっけ? 夕方誕生会やるとか言ってたよな」
「三時くらいまでなら時間あるよ。……董子ちゃんとの合同誕生会ね。一月誕生日っていうのしか知らなかったんだけど、董子ちゃん、僕と同じ日なんだよ。びっくりだよね。そういうわけで先生んちでやるけど、夜は繭姉んとこ行くよ」
「じゃあ、俺も夜行くわ。アルコール解禁オメデトー光くん。飲ませていいか? 酔ったおまえが見てみたい」
「……いや別に。飲みたいわけじゃないし」
ふざけて言った尚志に、光はちょっと困った顔をした。
八月に実家から帰って来て何日かしてから、悠司に言った。
自分は弱いから、もしかしたら心が揺らぐ時があるかもしれない。
それでも傍にいてくれますか? と。
悠司は光の大好きな声で「いくらでも」と嬉しそうに微笑んだ。
ユイは相変わらず光の中に存在して、たまに董子と一緒に出掛けたりもしている。仲が良い。
当初ユイはどこかに迷いがあったようだと、なんとなく感じていた。多分光が、尚志のことを選ぶと思っていたのだろう。
そういう未来も、確かに存在した。けれど、結局は悠司を選んだ。
(多分柴田は……)
恋人としてでなくても、ずっと傍にいてくれると思ったから。
勿論悠司のことは、好きだ。それなのに尚志に対してそんなふうに思うなんて、本当ならいけないことなのかもしれない。だからそれを悠司に言ったりはしないが、本心だった。
ふと部屋の外を見る。
どんよりとした一月の空。
またしても降り出しそうな雪雲が、暖房で結露した窓からぼんやりと見える。この冬は当たり年だ。年末から結構ごっそり降っている。
(……アオイ、……)
どこまでも青い空。光はずっとそこに囚われていた。
急にその空がなつかしく思えたが、目の奥に焼き付いたセルリアンブルーの檻は、今はもうここに存在しない。
大切なことを忘れてしまっているような、そんな気になった。
けれどどうしても思い出せなかった。
そして思い出そうとしたことさえも、やがて忘れた。
終
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