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第3話 賭けの報酬

「なあなあ、坂井さん。質問」  ベッドに転がって伸びをした尚志に、坂井と呼ばれた男は濡れた頭をタオルでかき混ぜながら振り返る。  大学生である尚志とは一見接点のなさそうな、30代の後半に差し掛かったサラリーマンの坂井とは、スポーツジムで知り合った。結構物を知っているので、会話するのは楽しい。会話以外のことをずっと誘われていたのだが、どうも尚志の好みとは路線が違っていたので、これまでは何もなかった。  未雨と別れた足で、男とホテルで会っている。髪や体についた焼肉の匂いは、シャワーが流してくれた。カルビが美味かったなんて思いながら、今夜は他愛のない約束を果たす為にここにいる。 「なんでしょう」 「高天原未雨って名前、聞いたことあるかなあ?」 「ええとね……、あー、小説書いてる人じゃなかった?」 「あ、そう……知ってるんだ。俺が知らないだけ?」 「活字読まなそうだよね、君は」  図星を突かれて苦笑いをする。文字を追っている時間があったら、筆を握っているか、筋トレしている方が良い。活字がいっぱい並んでいるのを見ると眠くなる。 「高天原というのは、神様が住んでる場所なんだそうだよ」 「へえ」 「彼女の作品も、なんていうか幻想的な感じだった気がするな。十年くらい前に読んだきりだけど」  坂井が何気なく言った「十年」に、尚志の眉がぴくりと反応する。  下手したら自分より年下に見えたのに。本当に年齢不詳だ。教えてくれないかも知れないが、今度会ったら年を聞いてみよう。  尚志の転がっている横に腰掛けた坂井は、綺麗に筋肉のついた体をうっとりと見つめて、手を伸ばした。 「思ったとおり、理想的な体だなあ」  同じジムに通っていても、運動量や元々の体の作りの違いもあって、坂井は尚志ほど立派な体付きをしているとは言えない。どちらかと言えば日頃の運動不足を解消する為に通っている程度だ。惚れ惚れするような肉体は、坂井にとって実に理想的だった。自分がそうなりたい、というのではなく、鑑賞し可愛がる為の体。坂井は自分よりも逞しい男が好物だった。 「尚志くんの裸をおかずに、白いご飯食べられると思う」 「坂井さん、変だからそれ」  どういう表現をするんだ。それくらい尚志の体が好きだと言いたいのかもしれないが、実際に想像してみると恐ろしく奇妙な光景だろう。 「いや、茶碗三杯は行ける」  むきになってアピールする坂井は、その体に手をかけ、胸についているピアスをそっと触った。 「一体いくつついてるの、これ。でも下の方にはないんだね」 「17箇所だったかな今は」  耳についているのが大半で、あとは首の後ろ、片方の乳首、唇の下とアイブロウ。坂井の指摘した下半身だが、完治するまで無茶が出来ないような気がした し、今のところあまり興味がないので手を出していない。 「ところで、今夜は僕の好きにしていいんだよね?」 「……まあ、約束だし?」 「尚志くんは律儀だなあ」  そう、これは約束だった。  坂井があまりにご執心なので、腕相撲で勝ったら一度だけ抱かせてやると言ったら、かつて見せたことのないようなファイトで尚志の腕をねじ伏せにかかった。負けたりしないと高をくくっていたが、甘かった。そんなに欲しかったのか。火事場の馬鹿力とは、こういうことを言うのだろうか。  まあ、別に良い。情熱は認めよう。  うきうきと臨戦態勢に入っている坂井を尻目に、尚志はふと遠い目になる。  未雨のことを、思い出す。 (あなたの絵が好きなの)  そう言った未雨の声色は、何か思いつめているような印象を受けた。  絵を褒められるのは珍しくない。褒められて嬉しくないわけではない。  ただ、急に絵本と言われてもぴんと来ない。  どういうのを求めているんだろう。他人のリクエストに答えて描いたことがないからわからない。未雨の欲しがっているものを、自分は与えられるのだろうか? そもそも未雨の作風さえ、尚志は知らないのだ。  これまでも、何冊か絵本を出したことがあると言っていた。今まで未雨の為に描いていた人が、とある理由で使えなくなったという。  とある理由とは何だろう。  そのことを口にした時の、未雨の実に複雑な表情。何かトラブルでも起こったのだろうと、簡単に推察出来た。  未雨が坂井も知っている作家であるのなら、その絵を手がけるというのは尚志にとってもいい経験になるとは思う。しかしすぐには答えが出ない。急にそんなことを持ちかけられても、決めることが出来ない。  とりあえずあとで本屋か図書館にでも行ってみよう。  未雨の作品に触れてみないと、何も言えない。  読書は苦手だったが、折角の機会だから。  そんなことをぼんやり考えていたら、坂井が上に乗ってきた。ついうっかり賭けに負けてしまったから、今回だけは好きにさせてやることにする。あまり受身は好きではないが、仕方ない。 「お手やわらかに」  せめて秒殺してやる、と思ったのは顔には出さないでおいた。

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