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第4話 偽りの愛情

「やあ……未雨」  ベッドの上で、体を横たえている男。白い壁、白い天井、白いカーテン。花瓶に生けられた花。――病院の個室だ。入り口には「黒川瑞保(くろかわみずほ)」というプレートが掲げられている。  久しぶりに彼を見舞った未雨を、瑞保は横になったまま少しだけ顔を向けた。 「わりと元気そうね」  以前からの髭面は、あまり顔色が良いとは言えない。そっと手を差し伸べて、未雨は静かに囁いた。 「瑞保。リハビリは、ちゃんとしてるの?」 「……あまり……」  大きな体に似合わず、小さな声で瑞保が返す。 「そう……。まあ、無理は良くないわよね。早く元気になってね」 「本当に……そう思っているのか」  力なく言った瑞保に、未雨は薄く微笑み、窓にかかっていたカーテンを開けた。 「いい天気ね」  桜が咲いているのが見えた。  暖かい陽気。  一緒に外を歩けたら良かったが、男は半身が不自由だった。かつて芸術を生み出した右手も、麻痺していた。  未雨の愛した右手は、二度と絵を描くことがないだろう。  描けたとしても、以前のようには行かない。瑞保の筆はとても繊細で、緻密だった。麻痺した右手では無理だ。治る可能性がないとは限らないが、それにしたって時間が必要だ。  とても残念だと思う。  彼がこれからもずっと、未雨の為に絵を描いてくれたなら良かったのに、と無理なことを願う。そうしたら上手くやってゆけた。彼を愛してやることが出来たのに。  けれどそれはあまりに現実的ではなかった。  まだたくさん、いい絵を残す可能性があったのに……。未雨は瑞保に見えない角度で、憂鬱そうにため息をついた。 (結婚しよう)  そんな馬鹿げたことを提案してくれた男だったけれど、こうなってしまっては未雨には何の価値もない。籍を入れる前で本当に良かった、と心の底から思う。  未雨にはあまりそういう願望はない。ただ瑞保が望んだから、もしこれからも未雨の為に絵を描いてくれるなら、結婚してもいいと思っていた。  だけど、もう無理だ。 (ひどい女だ)  もし結婚なんてしていたら、彼は未雨にとって重荷にしかならなかった。リハビリや介護がどうの、という問題ではない。そういうことではない。問題の次元が違う。 (最低の人間だ)  わかっていても、今の瑞保は未雨には不要だった。動く左腕で抱き締めてくれることは出来ても、未雨が本当に望むものは与えてくれない。そんな男と一緒にいるのは、苦痛でしかなかった。自分に目を瞑り結婚したとしても、いずれ瑞保にはそれが伝わってしまうだろう。それが偽りの愛情だと。  ものを書く仕事をしている未雨が、画家だった瑞保に出会ったのはもう十年以上前のことになる。  瑞保は年相応に外見が変化したが、その頃から未雨はほとんど変わっていない。初対面の人間には少女に見られる風貌だが、実際はもっと年齢を重ねていた。まるで人魚の肉でも食らったかのように、いつまでも変わらない。  あと十年後にはどうだかわからないが、若く見られる自分を、未雨は嫌いではなかった。本当の年齢も公表していない。自分でも忘れている。一体自分が何歳であったのか。  老いを感じるのは嫌だ。  だが瑞保はそれを思い起こさせる。  ある日倒れた彼を、未雨は自分の車で病院まで運んだ。動かない右手。動かない右半身。脳梗塞だと聞かされた。詳しい説明は未雨の頭をスルーしていったので、何を話されたのかよく覚えていない。覚えている必要もなかった。彼がもう描けないという事実だけが、未雨の中に残された。  まだ若いのに。  可哀想に、と思う。思うが、それと結婚とは話が別だ。  一緒に過ごした時間はとても長くて、濃い時間だった。彼は未雨の為に絵を描き、彼女が書く文章を彩った。未雨は自分で望む絵を描くことは出来ない。文字でしか表現することが出来ないから、瑞保の存在はとても嬉しかったのだ。  文字だけでは表現出来ないものを、二人で作り出した。何冊か出した絵本が、それだ。小説の装丁も大体瑞保が手がけてくれた。未雨を理解してくれる、とても大切な存在だった。  ――だった。  それは過去形だ。  未雨にとって、瑞保は既に過去の存在だ。  残してくれた絵は大切だ。けれど、新たな作品を生み出さない彼を、未雨は必要としない。だから代わりを探したのだ。 (……柴田……、下の名前はなんだっけ?)  画商をやっている男の息子だ。  未雨に話を持ってきたあの画商は、確か瑞保とも交流があったはずだ。未雨の好みも、知っているはずだった。だからこそ、自分の息子の絵が未雨の目に止まるのではないかと考えたのだろう。  息子可愛さゆえだろうか? (可愛がるような息子には……見えないけど)  しかしそこにどんな打算があろうとも、そんなことはどうでもいい。気に入らなければ容赦なく通り過ぎるし、実際未雨は彼の絵を気に入った。きっかけを作ってくれて、感謝している。  とても絵を描くようには見えない男だったし、正直あの外見は未雨の好みからはかなり外れる。あんなにピアスだらけで、ちょっと怖いとも思う。  話してみれば結構穏やかな感じだったから、少し安堵した。いくら絵を気に入っても、怖いと思う相手と仕事をするのは精神的に疲れる。  大丈夫だ。話した感じでは、外見はともかく性質は許容範囲だ。  あの男が欲しい。  あの男は、未雨が欲しているものを与えてくれるはずだ。  直感は大切だ。絵とはそういうものだ。まだまだ若造だが、だからこそ未来がある。瑞保に未来はない。 (私が愛してたのは瑞保の才能だけ)  ただそれだけだ。  才能があるうちは、愛していると思えたのも本当だった。なくなって初めて気づいた。  心など求めていなかったことに。  ……自分は冷たい女なのだと、自覚はある。  だから、新しく未雨が選んだパートナーに愛情を求めることは最初からやめようと決めていた。ビジネスと割り切る方がきっと上手く行く。  あれからまだ連絡はないが、いずれあるだろう。これは悪い話ではない。  瑞保がすぐ傍にいるのに、別の男のことをもう考えている。  先のことしか考えることが出来ない。過去は、振り返りたくない。  もう見舞うのは今日で最後にしようと思っていたが、それを瑞保に告げることはしないでおいた。  風に流された桜の花弁が、ざわりと宙を舞った。  それはとても綺麗で儚い。  愛情と似ている。  未雨は帰る間際、瑞保の麻痺した右手を長い間ぎゅっと握っていた。それは才能を愛した「画家の死」に対する、自分の中での別れの儀式だった。  とても残念だが、仕方ない。もう彼に用はない。  それが高天原未雨という女の本質だ。

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