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第6話 黒いキャンバス

 己の中に芽生えたプレッシャーを、誰かに言ったりすることは普段ならあまりない。みっともないと思うからだ。精神的な弱さを見られることは不本意だった。  ただ、今は酒も入っていたし、展典はわりと話せる男だった。ひとつ年上、というのも、もしかしたらあるのかもしれない。未雨に求められているものが重荷過ぎたから、この男に話したくなった。  話してしまうと、少しだけ楽になった。ジューシーな角切りステーキを突き刺してそれを口に入れる。 「それってチャンスなんじゃないの。何をプレッシャー抱えてんだか。君らしくもない」  展典は軽い感じで笑顔を見せた。  チャンス。それはわかっている。言うのは簡単だが、尚志は瑞保にはまだ全然届かないのだと、それもわかっている。  彼は高みにいる。実力とキャリアと名声。単なる学生の身分である尚志とは、立っている位置が違うのだ。しかし展典は「馬鹿だなあ」とまた笑った。 「その黒川氏とさ、ひーくんを比べる必要はないと思うわけだよ。自分で出来ることをやりきればいいんじゃないの」 「……わかってるんだけどさ」 「俺は何かを作ることは知らないけど、うちの兄貴なんか見てるとよくわかるよ? 何もないとこから、形のあるものを生み出す痛みとか、苦しさとか。たまにすごい鬱になったり、狂暴になってたりすることもある。  そういう時俺は手伝ってあげることは出来ないけど、馬鹿なこと言ったりして和ませてやんの。ま、失敗して逆鱗に触れちゃうこともあるけど。……そうやって苦しんで苦しんで、だけどそれがちゃんと形になった時って、きっと快感だよね?」  展典の兄はバンドで音楽をやっている。曲を作るのは大抵彼の役割であるらしく、それを傍で見ている展典は、物を作り出すことがどれだけ大変な作業であるかわかっている。音楽も、絵も、同じだ。 「出来るよ、きっと。ひーくんなら。もし辛くなったらさ、俺のこと呼んでもいいよ。話し相手くらいにはなったげる。どうせ君、もう一人のひーくんにはそういう話、出来ないだろうし」 「ああ……うん。サンキュ」  展典の言葉に、幾分肩の力が抜けた気がした。  もう一人のひーくん……(ひかる)のことか、と思い当たって尚志は苦笑した。  光は共通の友人だが、この場にはいなかった。いたら恐らくこんな話にはなっていない。確かに彼には言えないのだろう。展典は自分をよく見ている。  尚志の変化に気づいたのか、意味ありげに展典は相好を崩し、余計なことを言った。 「まあ俺は、ベッドの相手は出来ないけどなー」  酎ハイを吹きそうになる。グラスにラブレットが当たって、高い音を立てた。  光にどういう感情を抱いているのかを知ってて言ってるのかと、少しびっくりした。あまり表には出していないつもりだったが、本当によく見ている。だがしかし、光だってベッドの相手なんてしていない。 「ね、ひーくん。うさぎさんに言わないの? うかうかしてると横からどっかの狼に持ってかれちゃうよ」 「……頼むからあいつには余計なこと言わないでくれ」  光は尚志を友達としか見ていないから。今のところ、気持ちは言わないつもりだった。手に入れられたらいいとは思うが、それ以上に今の関係が崩れて一緒にいられなくなるのが嫌だった。  そんな様子に、展典は「無粋な真似はしない主義だよ」と小さく笑んだ。なんとなく大人な回答だと思って、ちょっと悔しかったので、話の矛先を展典に向けた。 「しかしテンテンて、ほんと兄貴のこと大好きだよな」 「え? あはは、まあねえ」  困ったように眉をハの字にして、展典はまた日本酒に口をつけた。  だいぶ飲んでいるのに、まったく顔色が変わっていない。尚志は少しばかり酔いが回ってきているというのに、強い。 「ぶっちゃけ、テンテンは兄貴をどういう目で見てるんだ?」  あまり詳しく突っ込んだ話をしたことはなかったが、酒の勢いでつい聞いてしまう。展典は話せる男だが、己を曝け出しているわけでもない印象がある。もっとも、それは自分もそうだ。 「どうもこうもないよ」 「可愛いよな」 「外見はねえ。でも本性はすごいよ。サディストだしバイオレンスだし。あれだけ血の気多いと、こっちはもう上手に殴られつつ見守るしかないとゆうか。…… だから、ひーくんがうっかり手なんか出したら、ボコられるよ」  ほんの少し、展典の目が細くなった。言外に手を出すなと言われてるみたいだった。そんなに牽制しなくても大丈夫なのに。兄のこととなると、展典は相手への対応がだいぶ変わる。口調は相変わらずのんびり、柔らかいのだが。 「出さないから安心しろよ。テンテンの大切な兄貴だもんな。ほんとは食っちまいたいとか思ってないか?」 「言ってる意味がわかんないよ。――だいぶ酔ってるね?」  展典は胡散臭いほど爽やかにはぐらかし、絡む尚志の頬をぺちぺちと叩いた。  尚志にも兄が二人いるが、展典のようにブラコンというわけではない。二番目の兄・尚弥が女になった時はかなり動揺したが、本人がそうしたくてしたわけだし、まあ仕方ないと思う。普通に仲はいいが、尚弥に執着したりはしない。  兄のことを口にする展典はいつだってとても楽しそうだった。本当に大好きなのだとわかる。本当は兄としてじゃなく好きなのではないか、なんて感じることもあるが、展典は明言しない。尚志は兄にそんな感情は抱かなかったし、理解も出来なかったが。  だけど、展典と話せて良かったと思う。  馬鹿なことでも話して、楽になりたい気分だったから。  ……あのあと、図書館から帰ってきても。  黒川瑞保がどうして未雨から離れたのかが気になって仕方なかった。  画商の父なら、もしや何か知っているかもしれないと思って、聞いてみた。そもそも未雨が尚志の絵を見るように仕向けたのは父だ。そこにどんな思惑があろ うとも、未雨が自分の絵に目を止めたのは事実だった。  父は知っていたのだろうか?  未雨がきっと尚志を気に入るだろうことを。  父は少し言葉を濁したが、食い下がる尚志に「噂だが」と前置きして、「彼はもう描けないらしい」と教えてくれた。  ――もう、描けない。  筆を折ったということだろうか。あんなに素晴らしい作品を生み出せる瑞保が、二度と絵を描かない。もう瑞保の持っているすべてを、吐き出してしまったと でも言うのか。それとも、己の限界を知ってしまったのか。瑞保は確かまだ40かそこらだ。まだ描ける、まだ余力はある、限界など訪れるはずがないと思いたい。  そこにどんな理由があろうとも、尚志が好きだと思えるものを作り出した瑞保が……もう、描けない。描かない、のではなく、描けない。  ショックだった。  心の中がもやもやとして、白いキャンバスにぶつけた。出来上がったそれは、他人に見せられるものではなかった。憤りが表に出て、痛々しいタッチだった。  それを上から黒で塗り潰し、部屋の隅に追いやった。処分しようかとも思ったが、なんとなく出来なかった。  描けなくなったとしても、それは他人のことだ。瑞保は他人でしかない。会ったこともない。描けなくなったのは自分ではない。落ち着け。そう思った。  夜の闇のようなキャンバスが、尚志の心を戒めた。  だいぶ頭が朦朧としていた。こんなに酔わせて、展典は自分をどうにかするつもりかなんて妙なことを考えて内心笑ったが、特に何事もなく家に帰った。  酔いが醒めたら、未雨に連絡をしようと思った。

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