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第7話 夕方の約束
多少予想はしていたが、二日酔いに見舞われた。
休みだったら良かったが、まだ金曜日だった。休む、さぼる、という考えが浮かべば良かったのかもしれないが、そういった単語は尚志の頭の中には存在しない。
その外見から怖い男、不真面目な男、と誤解されがちだが、基本的にはむしろ真面目な方だし怖くなどなかった。具合が悪いながらもなんとか大学に行って、やっと落ち着いてきた昼過ぎに未雨に電話した。
柴田です、と名乗ると、電話の向こうで未雨は尚志からの連絡をずっと待っていたかのような嬉しそうな声で、「夕方くらいにそちらに伺うから」と言った。
そちら、というのは画廊のことだろう。
昨夜結構飲み食いしたので、本当は帰りにスポーツジムにでも寄って摂取分のカロリーを消費しようかと思っていたのだが、来るというのなら仕方ない。電話で話が終わるとも思えなかった。会った方が早い。
結論から言えば、未雨への返事はYesだった。昨夜酒の力も借りつつ展典に内心を吐露して、気持ちが決まった。迷っていた尚志の背中を、彼が押してくれた。
けれど瑞保のことが気になっているのも、正直な気持ちだった。未雨の口から聞きたかった。描けないってどういうことなのかを。
――ジムと言えば。
あの晩坂井と寝てから、何度か電話やメールがあった。あの時この体を抱かせてやったのは、あくまでも賭けに負けたからだったのだが、相手はあれっきりにしたくないようだった。
困った男だ。
別に好きじゃないのに、と尚志は思ったが、あまり邪険にも出来なかった。どうせまたジムで会うことになるし、坂井を人として嫌いなわけではなかったから。話している分には、楽しいと思う。身になることもたくさんある。
ただ、好みの範疇ではない。だから何度もそういうことを許そうとは思っていなかった。別に餓えてるわけではないし、何より尚志は攻める方が好きだ。
(結局秒殺だったしな)
坂井とは、あまり楽しくなかった。と言ったら失礼だが、実際そうだったのだから仕方ない。もしかして坂井はリベンジしたいのだろうか。
受身は苦手だが、実はある意味得意でもある。苦手だと思うからこそ、時間をあまりかけずに相手を昇天させるのが上手くなった。嫌なことは早めに切り上げたい。夏休みの宿題と一緒だ。
昔、そういうことを知らなかった頃が尚志にも勿論ある。強引に攻めることしか知らなかった尚志を、「君が優しくなるために」とかなんとか言い包めて抱いたのは次兄の友人だった。今は仕事の関係だかで日本にいないらしい。
一応合意の上でのことではあったが、どうにもやり逃げされた感が否めない。別に尚志から逃げたわけでもないだろうが、いつのまにかふらっと国外脱出されてしまったので、わだかまりが残っているのかもしれなかった。多少むかつくものの、確かにあの経験から自分は優しくなった気がする。
抱かれる側の立場に立ってみろ、ということだったのだろう。
あの男のおかげで、どんなふうにされたら悦いとか、どんなふうにされたら嫌とかも身を持って理解出来た。だから尚志はどんな時でも相手を乱暴に扱ったりしないように留意している。いつだって、優しくする。嫌な思いはさせないように、丁寧に抱く。
……本当に優しくしたい相手は、まだ抱いていない。
展典にも言われたが、いつか行動を起こすことになるかもしれない。だけど、今はまだ駄目だと思っていた。機が熟していない気がした。
(結構俺って臆病かも?)
ふとそんなことを心の中で呟いた。
数分後、メール着信あり。
「……しつけー」
要約すると、次はもっと頑張るからもう一度チャンスをくれ、というような内容だった。頑張ると言われても、こちらとしては好んで抱かれたわけでもないので、別に頑張って貰わなくて構わなかった。
この情熱を、自分の仕事に向けたら良いのに。確か営業職だったと聞いているが、ラブメールなど打っている暇があったら、何か別のものを売ってこい、などと言いたくなる。まあ、自分はまだ学生で社会の荒波に揉まれたことがなかったから、あまり生意気なことも言えないのだが。
明日の夜会おうか? という返信を投げておいた。一度話をつけておかなければ、いつまでもだらだら執着されるのは煩わしかった。
画廊に着いたのは夕方6時半を回った頃だった。未雨はもう来ていて、父と何かを話していた。テーブルには湯気の消えた紅茶のカップが二つ。だいぶ待たせたのだろうか。
「尚志。お客さまがお待ちかねだぞ」
それらしく眼鏡に口髭なんか蓄えた線の細い父が、ちょこんと椅子に座っている未雨を目で示す。言われなくてもわかっているが、一応「ああ」とだけ返事をした。
無骨な息子に、父は嘆息する。これが尚生や尚弥だったら「はい」とか「お待たせしました」とか言えるんだろうが、生憎彼らは父の愛する美術系には来なかった。唯一来た尚志はこんな感じだし、父としては三人も息子を作ったのに上手く行かないとでも思っているに違いない。しかし尚志はそんな父の内心など一切気にならない。
未雨は濃い色のスーツなんか着ていた。
……似合わない、と思った。
童顔なのにそんな格好をされても、なんだか面接に来た学生みたいに見える。もしかしたら年相応の服装なのかもしれないが、未雨の実年齢を知らなかった。
「あのさ」
別にこんな話をするために電話したわけではなかったが、つい尚志は余計なことを言ってしまった。
「もっと違う服のがいいんじゃ?」
「――尚志、失礼だぞ」
たしなめる父を横目に、未雨は別段むっとすることもなく、「じゃあ、どんなのがいいと思うの?」と静かに返した。
「もっとひらひらのとか、レースとかリボンとか、可愛いのが似合うんじゃ?」
「柴田くん……あなた、ロリコン?」
嫌そうな顔をした未雨に、父も横で微妙な表情をしている。またロリコンと言われてしまった。実に不本意だ。
「まああなたがロリコンでもなんでも、私は別にこんな話をしに来たわけじゃないの。返事、頂けるんでしょう?」
あくまでも冷静な未雨に、なんだか意地でもロリータ服を着せたくなってきた。絶対似合うのに、何故嫌そうな顔をするんだろう。しかし返事はしなければならない。
「やるよ」
「そう……」
短い返事に、未雨はにっこりと微笑んだ。
「黒川さんとは、どうなったんだ?」
「――え?」
唐突にされた尚志の単刀直入な質問に、未雨は止まる。
「よしなさい」
父の制止には厳しさが混じっていた。聞いてはいけないことなのだと、父も知っているに違いない。けれど知りたかったから、本当のことを教えて欲しかった。
未雨は困ったように少し黙っていたが、やがて立ち上がって、
「これから買い物に行きましょうか」
繋がりがよくわからない科白を吐いた。
父に軽く会釈すると、未雨は突っ立っていた尚志の腕をそっと引いた。
一体どこに行くというのか。
駐車場に停まっていた未雨のチョコレート色の車の助手席には、相変わらず巨大なクマのぬいぐるみが鎮座していた。
後部座席に座らされて、行き先も告げずに発進した未雨に、尚志は困惑した声で尋ねる。
「買い物って?」
「私に似合う服、選んでくれる」
「……俺がさっき言ったような奴?」
「私そういうの着たことないし、あまり服にこだわりはないの。だから、選んで」
淡々とした口調。
どうも未雨は外見に似合わず落ち着いている。本当はこんなタメ口聞いてはいけないのかもしれない。しかし今更敬語にシフトするのもわざとらしいし、未雨も気にしていないようなのでこのままの口調で突き通すことにした。
しかしそんなことより、瑞保のことはどうなったのか。
「――瑞保は、」
尚志の思考を読んだかのようなタイミングで、未雨が切り出した。
「画家としては、死んだの。人としては生きてるけど、彼の右手は動かない。リハビリもしようとはしないし、きっともう無理ね」
何の感慨も見い出せない口調だった。
描けない……というのは、肉体的なことだったのか。
もどかしい思いをしているのではないかと、瑞保の内心を慮る。自分の右手が動かなくなってしまったら、尚志ならどうするだろう? 左手を使い始めるだろうか? だとしてもやはりもどかしい。利き手ではない手で描いた絵は、己の求めるものとはほど遠い。
辛いだろう、と思う。
そんな時に、未雨は彼を置き去りにする。
長いこと一緒に仕事をしてきた相手だというのに、彼女の態度はあまりに冷たくはないか。
勿論個人的に事情を深く知っているわけではないから、単純に非難することも出来なかった。未雨と瑞保が、どんな関係だったかも知らない。あくまで仕事のみの関係だったとしたら、描けなくなった彼は未雨にとって必要はないのかもしれなかった。でもやはりそれでも、冷たいと感じた。
――ふと、
未雨の左手が、何故か助手席のクマの柔らかそうな右手をむぎゅむぎゅと握っているのに気づいた。
何故こんなクマが置いてあるのだろう。彼女の性格からしてみれば、あまりこういうのを置きたがるようにも見えないのだが。外見だけなら似合わないわけではないが、話してみれば違和感も浮上するというものだ。
(もしかして助手席に座らせない為の、障害物?)
なんとなく、そんな気がした。
未雨はよくわからない。
「……あんたほんとは、何歳?」
ずっと疑問に思っていたことを口にした尚志に、未雨はバックミラー越しに視線を投げかけ、すぐに返した。
「女性に向ける質問じゃないわね」
二度と質問を許さないような雰囲気だった。
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