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第8話 感情論

 本当は坂井との予定なんてぶっちぎってやりたいことがあったのだが、してしまった約束は実行に移さなければならない。  土曜の夕方、坂井と会う前にスポーツジムに寄った。  ここのところ時間が取れなくて来られなかったから、体がなまって仕方なかった。昨夜から今日にかけて、未雨と色々な話をして、ちょっと頭が一杯になっていたものだから、それの切り替えをするのにも汗をかくのはちょうど良かった。  贅肉が付くのは尚志にとっては許しがたい現象であり、常に体を鍛えていたかった。友人などには、どうせ筆しか握らないのに何故? とか言われることもあるが、鍛えられた男の体は美しいと思うし、鍛えてないよりは鍛えてある方がいいに決まっていた。もっともそれを他人に強要したりはしない。自分に対してのみ思うことだ。  例えば光なんかが自分みたいな肉体になってしまったら、それはとても残念だと思う。あの抱き心地のよさそうな、華奢な体。可愛い顔に筋肉はあまり似合わないし、彼は今のままでもいい。 (ああ……泣かせてえ)  あらぬことを妄想して、つい本心がこぼれる。溢れそうになっているこの欲望が、いつまで我慢出来るのかは尚志自身よくわからない。本当は我慢していないで、多少の無理には目を瞑っても手に入れてしまえばいいのでは? という考えが鎌首をもたげることもあるのだが、やはりなかなか行動には移せないでいた。無理矢理は嫌だ。ポリシーに反する。何かきっかけが必要だ。 (……きっかけ、なあ)  ついため息が洩れた。  本当に好きな相手にはなかなか手が出せない。好きじゃない相手とは、わりとスポーツ感覚で普通に体重ねたり出来るのに、どうしてこうなんだろう、といらいらする。本当に横から誰かに奪われそうにならないと、実行出来ないような気がした。  今夜会うのが坂井じゃなくて光だったら良かったのに、なんて現実を無視した考えが過ったが、会いに来たのはやはり坂井だった。 「この前のは、腕相撲の景品だったんだけどな」  話がぐだぐだになるかもしれないので、場所はこの前と同じホテルだった。もしかしたら流れで寝ることになるかもしれないが、とりあえず伝えるべきことは先に伝えておかないと気持ち悪い。ベッドの脇に腰掛けながら、冷蔵庫に入っていたウーロン茶を口にして、尚志は単調に自分の考えを述べた。 「わかってるよ、それは。でもねえ、尚志くん……」  坂井は困ったように笑い、ソファのあたりで煙草に火を点けた。 「僕は確かに君を満足させてあげられなかったかもしれない。だからこそ、もう一度機会を与えてくれないかな? 僕としても、あの程度だと思われるのはプライドが許さないし……。今日は、期待に沿えるよう頑張れると思う」 (そういうことじゃないから)  尚志は眉を少し寄せた。  別に坂井のプライドがどうのという話ではないのだ。短時間で終わらせるのは尚志の得意とするところだったし、攻められるのはそれほど好きじゃない。坂井は何か思い違いをしているのではないか。 「坂井さん、俺攻め込む方が好きなんだけど」 「まあそうなんだろうけど……でも、僕に抱かれてる時の尚志くんは、とても可愛かったよ」  ウーロン茶を噴いた。 「――いきなり何!」 「嫌だった?」 「俺が可愛いって? 馬鹿かと。大体俺は、突っ込まれるのは好きじゃない」  尚志の顔は若干引きつって見えた。  自分相手に可愛いなんて口にした男は、坂井が二人目だった。どこをどう見たら可愛いというのだ。かっこいいとか言われたら嬉しいが、可愛いなんて絶対に言われたくない。くらくらする。 「君が言ってるのは感情論だよ」 「何が」 「体は結構、いい反応をするよ。そういう自分の一面を見るのが嫌なだけだろう? 本当は、好きだろう。結構気持ち良かったよね? 僕は別に、君の嫌がることをしたいわけじゃないんだ。体に素直になれと言ってるだけで」 「……何言ってんだか」  なんとなく図星を突かれて、不機嫌になる。  坂井の言ってることは、実は嘘ではない。だけど、感情論が悪いとも思えない。心が認めたいと思っていないのだから。 「尚志くん、僕は君がどう思おうと気にしない。いいじゃない、どうせ体だけの付き合いなんだからさ。しつこくする気はないよ。たまにこうやって、会ってくれれば。もし君に特定の人が出来たら、潔く身を引くことだって出来る」  坂井はにっこり笑って、煙草をもみ消すとベッドに歩み寄って尚志の隣に腰掛けた。 「僕は心なんて求めてないよ。そういう方が、後腐れなくていいんじゃない? なんなら今日は僕が尚志くんに抱かれたっていい。君が不満なのはその点だろう?」  押しつつもたまに引く坂井の方針は、仕事にも活かされているのだろうか。あまり強引に押し進められると反発もしたくなるが、こうやって引かれると、隙が生じる。  尚志はつい喧嘩腰になっている自分と冷静に応じている坂井を比較して、うんざりとため息をついた。年上の余裕というやつだろうか。 「坂井さんて……口上手いよな。……いいよ、リベンジさせてやるから来いよ。今日は自信あるんだろ」  少し残っていたウーロン茶を飲み干して、不機嫌を隠さないまま呟いた。  坂井の手がジーンズのジッパーを静かに下ろしてきた。尚志の厚い胸板に顔を近づけ、「シャワー使ってきたんだ?」と楽しそうに笑う。 「ジム寄ってきたから」 「君はむきになって鍛えようとするよね。それも可愛いって言われたくないから?」  鍛えなくても、尚志が可愛いというわけではない。顔の造作はシャープで男らしい部類だ。  坂井が言っているのは、そういうことではないのだろう。しかし尚志は可愛いと言われるのが心底嫌だった。 「俺と上手くやりたいんなら、その単語はNGだから」  むっとしてシャツを脱いだ尚志に、坂井は苦笑いしながら「もう言わないでおくよ」と謝罪した。  ……心なんて求めてない。  坂井の科白に、未雨がふと甦った。  せっかく汗を流して、切り替えたと思ったのに。男とやる時に、未雨のことは思い出したくなかった。  だけどこれが終わったら、また未雨のことを考えている自分がいるだろうことも知っていた。  まるで恋だ。  未雨のことばかり考えてる。  昨夜からずっと、未雨のことばかり思ってる。  きっと、未雨を描いてるから。  描いてる時だけは、未雨に恋をしているのだ。  求めてるのは心じゃない。  じゃあ、何を求めるんだろう。体じゃない。心じゃない。……わからない。紙の中に閉じ込めた幻影か。  だけど幻影でも、それは確かに高天原未雨だ。

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