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第50話 穢れ
神社のクスノキから落ちて脚に怪我をしたあの日。招き入れられた家で、以前会った時と同じように可愛らしい仲原湊に手当てをしてもらいながら、つまらない話を、した。
とてもつまらない話だった。多分。
「柴田は元気ですか?」
消毒液が傷口に沁みた。何の含みもなさそうな声色と、遠くを見るような眼差し。雅宗はいきなり聞かれた内容に対し、何秒か逡巡する。
「俺があの子と一緒にいたこと、覚えてたんだ」
「覚えてますよ」
湊は雅宗から逃げるように傷口に視線を逸らして笑い、絆創膏を貼り終わると救急箱を閉じた。薬臭さがふわりと舞った。
本当に何の含みもなかったのだろうか。
疑問を口にしてみても、湊は淡々と対応するだけで、なんとなく肩すかしを食らった気分にもなる。
尚志は既に思い出に変わっていた。
けれどそんなものなのだろう。時と共に風化してしまう思いは確かにあるのだ。時と共に歪曲してしまう思いもまた、ある。
忘れたかったのだ。
自分自身が犯してしまった過ちを。
燃え盛る炎に紛れ、記憶すらも焼き尽くしてしまいたかったのだ。
もういない自分の片割れに、全部を押しつけて。
それが間違っていると知っているのに。
「ごめんね、雅宗」
間違っているのだと、本当は知っているのに。
「……また来ましたか」
ざわりとした何かが背中を撫でた気がした。
雅宗は何度か目を左右に動かして、薄暗い辺りを見回す。人気のない、玉砂利の敷かれた境内。
湊が賽銭箱の脇でこちらを向いて、じっと佇んでいた。白い装束が夕闇にぼんやりと浮かんで、何秒かの間それが人間なのだと認識出来ないでいた。
「雅宗さん、前にも言いましたが」
湊は静かに笑んで、ざりざりと近づいていった雅宗の手元に視線をやった。右手には煙草、左手には、何か四角い物を持っている。
「何を言われたんだっけ」
何のことを言われているのか、覚えていなかった。湊は右手に軽く挟まれて紫煙を漂わせているキャメルに視線を落とし、仕方ないというふうにため息をついた。
「煙草、ポイ捨てしないで下さいね」
「ああ……はいはい。言われたっけね?」
指摘された記憶はなかったが、最後にひと吸いだけして地面に煙草を押し付ける。
「むしろここで吸うのはやめて下さい。灰で、汚れる」
「はいはいごめんね」
たしなめる口調に苦笑いして、消えた吸いがらを拾い上げる。捨て場所に困り、結局そのまま右手に戻した。
「あなたの心の汚れは落ちましたか」
「いきなり何のことやら」
心なんて、汚れ切っている自分を知っている。こびりついた煤のように永遠に落ちない、穢れだ。
どうしてここへ来たのだったか。
思い出そうとして、自分が左手でずっと握り締めていた存在に思い至った。
「そうだ。これ」
雅宗は億劫そうにそれを差し出すと、湊が立っていた賽銭箱の脇に腰を下ろした。
「……柴田ですね」
「そう。良くわかったね。どうしようか、対応に困った」
「響歌さんですね」
「そのようだ」
「対応に困り、僕に押し付けようって魂胆ですか」
湊は受け取ったそれ……キャンバスを少し手元から離し、描かれた人物画を数分眺めた。
深い色彩の溢れる空間。
本来ただ平面で白かっただけの長方形に、どこへ続くとも知れぬ奥行が出来て、そこに響歌が存在していた。
笑っている。
静かな笑顔で佇んでいる。
そんな表情を、雅宗はしばらく見ていなかった。
どうして尚志が響歌の顔を知っているのだろうと尋ねたら、どこかで写真を見たとかなんとか言っていたが、一体どこで見たというのだろう。曖昧な返事しかされなかったので、結局はわからないままだ。
「懐かしい、匂い」
キャンバスを顔に近づけた湊は、油絵の具の臭いに微妙に顔を歪めた。
「君も絵、描いてたんだろう」
「柴田に勝てないから、やめました。やめて正解だったと、今は思っています」
「ふぅん。俺にはわかんないけどねそういうの」
「柴田のこと、好きですか」
「答えないと駄目かな」
「僕は嫌いです」
本音にも、建前にも聞こえた。雅宗は質問には答えず、湊の心が本当はどこにあるのだろうと、どうでも良いことを考えていた。
「――で、これを僕にどうしろと?」
「預かっててくれると嬉しい。尚志が、煮るなり焼くなり、って俺に言うんだけどね。煮ても焼いても、どうにもならない」
「どうして僕?」
どうして、と改めて問われると答えに困った。しかし湊はすぐに「いいですよ」と頷き、それを大事そうに両手で抱えた。
冷えてきた空気に、秋の虫の声が混じっている。雅宗は空いた左手で体をさすり、虫の声に負けそうな小さな声で呟いた。
「前に、つまらない話をしたよね」
「どの話でしたか」
囁きにも似たその声を湊はちゃんと拾ってくれたようで、すぐに切り返された。
「俺が木から落ちたあの日にさ。……全部響歌のせいだって」
「つまらなかったですか」
「俺のせいだからね」
「僕が言ったわけじゃありませんが、」
湊は一旦言葉を切り、再びキャンバスに目を落とした。
「そういうことにしておいても良いと、響歌さんが言うものですから」
「響歌はもういない」
いるはずがなかった。
「そうでしょうね」
たった一人。
ずっと一緒にいるって、約束したのに。
全部響歌のせいにしていい。それで楽になれるなら。
だって響歌は雅宗の傍にはいられないから。
雅宗は響歌を取り残して、一人年を取って、これから先ずっと、響歌も、ママも、パパもなしで生きてゆかなければならないのだから。
「だから苦しまないでいいよ」
全部、響歌のせい。
そういうことにしておいて。
――忘れていい。
響歌の声が何度も聞こえる。
それがどこから聞こえてくるのか、本当は知っているのに無視していた。あるいは本当には知らなかったのかもしれないが、今になってはそんなのはどうでも良いことだ。
会話が成り立つはずのない言葉。
(俺は誰と話していた)
誰に着せるでもない女物の服。
(クローゼットの片隅に追いやられて)
送られてくるはずのないメール。
(メールを打ったのは俺自身ではなかったか)
黒く塗り潰された父の姿。
(あれは誰だった)
薬に頼っていた母。
(俺がいても足りないのか)
そこにない体温。
(もう触れることのない体)
もういない響歌。
(俺の、半分)
「……雅宗さん」
自分の思考がわけのわからない何かにシフトしていたことに、声をかけられてようやく気づく。雅宗は黙り込んで険しくなっていた顔を目の前の人間に向けた。
鏡のような目がじっとこちらを見ていた。
「響歌は大丈夫」
「…………何が?」
手が雅宗の髪に伸びて、優しく撫でた。
何故かその体温が湊ではない誰かのものに思えて、とても落ち着かない気持ちになる。
これは誰だったろう。
(お社の坊ちゃんだろう)
わかりきっている。
けれど雅宗を見つめる二つの目が、脈拍に不自然なリズムを刻ませる。どうして湊がこんなことを言うのだろう。意味がわからなかった。
「ごめんね、雅宗」
呼び捨てにされた名前の響きに違和感を覚えながら、そんなことはありえないのに、もしかしてこれは湊ではないのではないか、という思考がよぎる。
どうして良いのかわからず何も言葉を返せずに、湊をただぼんやり見ていた。
「この世に残していってしまってごめんね」
湊はふざけているのだろうか。
それとも響歌だったのだろうか。
わからなかった。
呆然としていたら、やがて湊がちょっと困った顔をして、眉間をかりかりと掻いた。
「もう、帰られてはいかがですか? 用事も済んだでしょう」
「……邪魔だったかな」
「仕舞いに連れて行かれますよ」
どこに、とは言わなかったし、聞かなかった。
湊は預かった絵を抱えたまま雅宗に背中を見せ、それ以上なんの補足もせずに奥の方へ消えてゆく間際、一言だけ付け加えた。
「柴田によろしく」
わかった、と返そうとしたが、返せなかった。
……尚志が、
どんなに雅宗の中に心を刻もうとも。それが自分にとって救いになるのか否か、今のところ判然としない。いつものように適当な笑みでそれをかわし、尚志を遠ざけることも出来る。
今更自分たちの間に愛情だなんて、馬鹿馬鹿しすぎて笑えてくる。
(そうだろうか?)
笑える。
(怖いだけだろう)
あの、すべてを見透かすような二つの目と、見られたくないものを描く右の手が。
(響歌の声と俺の声が、)
重なる。
怖いんだ。
俺は尚志が怖いのだ。
響歌が俺の中の幻なのだと、突きつけられてしまうから。
どこかで虫が鳴いている。
もうそれしか聞こえなかった。響歌の声はいつの間にか止んでいた。
空気が深く暗く闇夜に溶けて、雅宗を飲み込もうとしていた。
このまま目を開けずにいたら、安らかな眠りを手に入れることが出来るだろうか。
「いっそ連れて行ってくれよ」
それだけ吐き捨てると、ようやく雅宗は重い腰を上げた。
終
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