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5 静穏
広い集会室の前方、一見すると女子三名が作業をしている。
今日の昼食時も妃は真の教室をおとずれなかった。
妃が賢一のことを気に病んでいるのならその心配はないと伝えたい。
真は昼食をとり終えると妃に電話を入れ、集会室でサークルの作業をしているという妃のもとへとみずからおもむいた。
窓際の席からこちらに顔を向けた妃は、初夏の日光に照らされて一層淡白な色をしていた。
性別を超えた不自然さを覚える。
常識の物差しではかってはならない人間。
どうも賢一の話を聞いてから妃を見る目がわずかに変わってしまった気がする。
これも妃の一面であるからかまわないだろうか。
「ねえ真は美術得意?」
画材を広げて座る妃が、歩み寄った真を見上げる。
「ん、美術は好きなほう。手伝っていいの?」
サークルへの参加はできないと思っていたが、学内での手伝いなら校外の他人に迷惑をかけることはまずないだろう。
にこりとうなずいた妃にうながされ、向かいに腰かけ説明を聞く。
近隣図書館での読み聞かせのボランティア、オリジナルの紙芝居を披露するための準備らしい。
完成した一枚を見本に同様の着色をして欲しいとの指示、パステルカラーの二羽のウサギが仲よく遊ぶ様子の描かれたイラストボードを渡される。
「妃が描いたの?」
なんとなくたずねると、妃は自慢気なような照れたような笑みを見せた。
「そーだよ。俺も美術好きなほう」
真は思わず釣られて微笑む。
妃の口から自身が不誠実であると聞かされても、どういうわけか不快になれない。
このような夢のある絵を描ける人間が不純であるなど、なにかの間違いだと思えてしまう。
二羽のウサギが喧嘩する未着色のボードを受け取り、妃の道具を借りてアクリル絵の具で塗ってゆく。
日差しと窓からの風が心地よい静かな部屋で淡々と作業する、新鮮な体験に没頭していると、
「あれっ、真左利きだ。気づかなかった」
妃が少し驚いた顔をした。
「ん。右手使うようにしてるけど、パレットとか左にあったから左でやってた」
向かい合う妃が右手に道具を広げているから左で作業するほうが楽で、無意識でそうしていた。
妃は、また笑う。
「左利きの人って字とか絵がうまいイメージあるよね」
いつもなら左利きを指摘されてもだからなんだと思うのに、なんとなく浮つく。
「いや美術の授業が好きなだけだから。そんなにうまくはない」
そこにまわりで作業していた女性二人も加わってきた。
「えーすごい上手だよ。このページだけクオリティ高くなるんじゃない?」
「妃くんが誘ってた子でしょ、サークルやっぱり入ろうよ」
昼食時にボランティアの活動をするだけあって優しげで親身な雰囲気の二人、彼女らに勧誘されても、やはり意思は変わらない。
「あー、俺沸点低いから。入ったらたぶん迷惑かける」
残念がりながら二人は午後の講義のため集会室を出ていった。
妃は次が空いているので続けて作業をするという。
同様に空いていた真は他人がいなくなった集会室、作業を続けながら、妃に報告した。
「昨日、賢一ってヤツに会ったよ」
妃は思いつめたような目で一瞬真を見やり、顔をふせる。
「ごめん」
きっかけは妃でも、殴ったのは自分の意思だ。
「別に。自分の性格悪さわかればそれでいいみたいに言ってたから。ワケわかんないヤツだな」
納得がいかないのはそこだけで、喧嘩をしておきながらわだかまりのようなものはない。
二人の因縁に巻き込まれてはいるが、妃が殴られたのでなければそれでよい。
「あいつ高校では優等生みたいなヤツだったんだよ。自分で性格悪いって言ってたんだけど、あんなのは見たことなかった」
妃は筆を止め、やや沈んだ表情で説明する。
見かけ以外は優等生にはまったく思えなかったが、根に善良な部分があるようには見えた。
妃が過去に見ていたのもきっとその部分だろう。
見る目がなかったと妃を落ち込ませたくない。
「でも俺も昨日は、あいつはそんなに悪いヤツじゃない気がしたよ」
ダラダラと保身のためにどうでもよい話をする男より、自分をよい人間に見せず言いたいことを端的に言うあの男のほうがいさぎよく、好感すら持ててしまう。
妃は考えをめぐらせるように目をしばたかせ、沈んだ声音のままつぶやいた。
「あのさ、最初は賢一のほうも遊びだったんだ。でも、途中から賢一が本気になって」
いったん言葉がとぎれる。
双方が遊びだったなら捨てられたと言って憤慨するものではない。
実際賢一はそこに怒りを感じてはいなかった。
「俺も本気になりたかったんだよ。だけど、真剣に考えても、恋人って感じの特別なものにならなかったから。賢一いいヤツだから、悪いと思って別れたんだ」
本気に対して真剣になったのなら、それは遊びではないと言えるのではないか。
だが捨てられたほうは納得しているのに、捨てたほうが逆に気に病んでいる。
「なんか失恋したみたいになってるな」
愛情がないから別れるという過程は、自分が先日経験したものと同じだ。
妃が少し悲しそうだから、妃が自分と同じ側のように思えてしまう。
妃は唇を噛んでどこか泣きそうな顔をする。
「ねえ、真は俺みたいに遊びで付き合って相手を捨てるよーなヤツのこと、嫌いだろうなって思ったんだけど」
嫌われることを恐れて元気をなくしていたのだろうか。
その心配は、自分の中にもある。
「妃は、すぐ人を殴る俺のこと嫌いじゃないの?」
「だって俺のために怒ったんでしょ、むしろありがたいから」
妃はそう即答する。
安心して、自分も妃を安心させたいと思う。
「俺は子どものために手描きで紙芝居作るヤツのこと、嫌いにはならない。俺、妃好きだよ」
付き合いは短いが、妃の言動から妃が信頼のおける人間だということはわかっている。
共にいることが楽しいし、学ぶべきところが多い人間、切られないのなら自分も切らない。
その言葉に、妃はまゆをひそめた。
不快、というわけではない、冗談なのかとおとなげなく唇をとがらせた表情。
「なぁ、俺男好きだってわかってんの? 好きとか言うなよ本気にするから」
「ん」
言うなと言うから、わかったと返した。
手にしたままの筆を洗い、作業を再開する。
妃も無言でそれにならう。
賢一を殴ったことで妃に切られなかった。
妃と関わり合ってもかまわないことに、真は単純に安堵した。
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