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8 胸臆

 目星をつけたアパートの前で再度妃と連絡を取る。  教えられた部屋のチャイムを鳴らすと、しばらくして小さく扉が開いた。  隙間に見えた妃は泣きそうな表情で肩からタオルケットを羽織っており、その下からは素足がのぞいていた。  真はすぐに玄関に滑り込み扉を閉めた。 「大丈夫か?」 「うん」  妃は目を伏せる。 「帰る?」 「うん」 「なに、帰るって」  奥の部屋から青沼が声を上げ、歩み寄ってきた。  腰にバスタオルを巻いただけの姿。  妃は振り向いて威勢よく噛みつく。 「俺、三人は無理だって言ったよな?」  二人ならよいと、妃はここに来てしまったのだろうか。  青沼の背後、部屋のベッドにかけてスマートフォンを眺める男は黒のシャツにジーンズを着用している。  妃に無断で後から合流したのか。 「妃くん乗り気だったよね」 「ヤダって言ったら乱暴するんだろ?」  まだおそらく二人に非道ななにかをされたわけではない、わずかに不安がやわらぎ妃をうながす。 「待ってるから着替えて」  妃が動く。  青沼はそれを腕で止めると、にこやかに妃を抱き寄せ真を見すえた。 「やる気ないなら勝手に人の部屋に入るなよ」  その手を無理にでも引きはがしたいが、危険と知り部屋に上がった妃にも落ち度がある。  このまま連れ出すこともできないため無茶ができない。 「それは悪かった。けど妃が帰るって言ってるんだから帰ってもいいだろ」 「一人で帰ってくんない? 僕ら妃くんと遊ぶ気満々なんだから」  青沼が納得しない。  妃が着替えを済ませるまで自分一人で二人の男を食い止めることができるか。  逡巡していると、妃が片手で青沼を押しのけた。  腕からのがれた妃は笑みを含んだ声で言い放つ。 「エッチなんて二人いればできるだろ、あいつと青沼くんでやって」  一人で二人を牽制しようとしていたが、そうではなかった。  妃は弱い人間ではない。  妃が部屋の奥へ進むと青沼は興味をなくしたように続いて部屋に入っていく。 「コウちゃんどっちする?」 「アオがネコに決まってんだろ」  軽快に黒シャツの男と言葉を交わした青沼は、男の横に座りためらいなくくちづけた。  その気がない真への冷やかしなのか見られることに快感でもおぼえるのか、思惑が不快でいらだったが妃がここを出るまではいさかいを再燃させることも気をそらすこともできない。  濃厚にからみ始めた二人を横目に平然と待ち、足早に戻った妃とともに無言で部屋を後にした。  単車まで引き返しメットを妃に差し出したが、妃はそれを受け取らなかった。 「汚れてるから、ひとりで帰る」  同意の上での行為はすんでいたのだろうか。  そんなことよりも、生気の抜けたような顔をした妃をこのままひとりで帰すわけにはいかない。 「気にしない。単車の後ろ、乗ったことある?」 「ないな」 「軽くでいいから俺の腰つかんで、曲がるときに一緒にかたむいて。いやじゃなかったら乗ってよ、気分晴れるかも知れない」  妃は目を伏せわずかに思案してから、真を見つめ、メットを手にした。  妃の自宅を把握して、単車を向ける。  来る際は気が散らぬよう神経をすり減らしたが、今は確実に妃が背後で無事でいる。  自在に身体を運ぶ走行感と風を切る爽快感が、自分の中の憂鬱も晴らしてゆく。  二人乗り(タ ン デ ム)が恐怖でしかないという人間もいると聞く、信号待ちで大丈夫かとたずねると、妃は楽しいと張りのある声で返してきた。  安心と共感の喜びで笑み返し、昨年秋に女と付き合い始めたころを思い出す。  どうしてそんな感覚になっているのか。  真は不思議な感情を流し、ハンドルを握り直した。  三十分ほどでこぢんまりとした二階建ての白い一軒家、妃の自宅に到着した。  単車横で一服してから言葉に甘えて家に上がり、シャワーを浴びると言った妃をリビングで待つ。  帰宅している家族はいないようだ。  この時間に自宅に家族がいないという状況は真の実家では考えられないことで、賢一の言った『ワケあり』な事情が家庭にあるのではないかと短絡的に考える。  妃はすぐにリビングに現れて、アイスコーヒーをいれてくれた。  ローテーブルで真の向かいに座った妃は濃いグレーの七分丈のジャージ、ラフな服装のせいか普段よりも小さく見えた。 「真、今日もホント、ごめん。どうにかなると思ったけど、無理そうだった」  単車でメットをかぶっていたため帰路は会話がままならず、まだこれといった話をしていない。 「無理矢理なにかされたとかは、なかったんだよな」 「うん」  不幸中の幸いだ。  自分が間に合わなかったなら、青沼やもう一人の男が執着するような人間だったなら、なにごともなく帰ることはできなかった。 「なんであいつのトコに行っちゃったの」  警告に当たることはした、それでもこうなってしまった。  静かにたずねると、簡単すぎる答えが静かに返る。 「したかったから」  言うほど強欲で単純な理由ではないのだと思いたい。  心配だから、そんな事情で危険な目にあわないでほしい。 「妃賢いから、こんな失敗しないと思った」 「こっち関係は俺、失敗しかしてないから。賢一のこともだしさ」  他人事のようにこぼす。  自身を確立した強い人に見えるのに、大切な部分が浅はかで悲しい。  完璧な人間などいないのだからそのようなこともあるのだろう。  だが傷つくことはさせたくない、自分に妃を守ることはできまいか。  したいと言うのなら。  あのような危険な男のところになど行かずに、自分とすればよいのではないか。  自分は妃の不利になるようなことは絶対にしない。 「妃、俺がその、抱いてもいいか?」  妃に失敗して欲しくない一心で愛情もないのにそう提案したつもりだった。  しかし言葉にして改めて妃を見澄ましたとき、自分の中に妃に対して感情があることに気がついた。  何度か妃に好きだと言った。  初めて会ったとき、中性的で本質をとらえがたい容姿に戸惑った。  外見に見合わない烈々とした性質に自分にはない強さを感じ尊敬すらおぼえ、妃を卑下されるとさほど他人に執着しない自分が激しい怒りを感じた。  単車の後ろに乗せた妃に対して浮き足立ったのは情が湧いていたからだと考えると、今までのすべてに合点がいく。 「俺、妃好きだから、また妃がこういう目にあったりするのはイヤだから。遊びでするなら俺じゃダメか?」  妃は無言だった。  無表情のような深刻そうな目をこちらに向ける。 「賢一みたいに後からからんだり、青沼みたいにウソついて好きにしたりは、絶対しない」  好条件だと思う。  妃も自分のことが嫌いではないから、教室をたずねてきたり連絡を入れたりしてくれているのだろう。  だが。  答えがなかなか来ないから、そうではないように思えてくる。  自分では、ダメか。  そういえば女に愛想を尽かされたばかりだ、自分には誰かをつなぎとめるような魅力はない。 「あー、変なこと言って悪かった。遊びでも妃の趣味と合わなきゃよくないよな」 「待って、違う」  あきらめかけた気持ちを、無表情で妃が止める。 「遊びで真とするとか、できない」 「ん、わかった」  友人として誠実にとらえられているようなら、それはそれでよい。  愛情もないのに抱いたり抱かれたりなどしない、自分もそう思う。  遊びと言いながらも賢一や青沼には多少なりとも情があったのだとするなら少しさみしい、やはりいたたまれなくてこの場は去ろうと立ち上がると、妃があわてたように自分を見上げた。 「待ってよ、俺も真のこと好きだから」  その言葉に、耳を疑った。  好きだと言うなと何度も言うから、好きだと言われるなど想像もしなかった。  呆然と立ち尽くすと、妃の表情が途方に暮れたようにゆがむ。 「したいけど、俺、汚れてるから。こんな体、本気で好きなヤツに、抱かせられない」  本気で好きではなかったから、賢一や青沼には自分を抱かせた、そういう意味なのか。 「したいけど、できない。けど、いなくならないでほしいんだよ。どうしたら、俺」  ひどく不安そうな感情的な声音と震える瞳に浮かんだ涙で、真はようやく妃の想いを痛切に受け止めた。

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