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10 難渋
絵本の読み聞かせや紙芝居の間も、少年の親は戻ってこなかった。
非常に気がかりだったが少年を職員に任せ、後片づけののちに図書館を出た。
妃と連れ立って外の喫煙所で煙草を吸っていると、入り口から若い女とともに先ほどの少年が姿を見せた。
保護者が無事あらわれたことには安堵したが、女が紙袋を複数手にしているのを見ると、どうも腑に落ちない。
「翔麻 くんバイバイ!」
いつの間に名を知ったのか妃が笑顔で手を振るので、ならって真も手を振った。
翔麻がそっけないながらも小さく手を振り返すと、母親らしき女は自分たちに気づき、ヒールを鳴らしながらこちらに近づいてくる。
「うちのと遊んでくれたのかな? ありがと」
ウェーブのかかった長髪に薄桃色のサマーニットと白のロングスカート、気さくな印象の女が笑顔で感謝を述べる。
「このお兄さんにずっと遊んでもらってたんだよね。楽しかった?」
妃が真を指差したずねると、翔麻は無言でうなずいた。
妃は女に向き直り、誠実な口調で女同様笑顔を見せた。
「俺たち月二回ここ来てるので、よかったらまた来てください」
「んー、わかった。時間あったらね」
女は再度軽く礼を言うと、足早に図書館を離れていった。
二人の後ろ姿を見送りながら真は喫煙を再開し、妃にぼやく。
「買い物にでも行ってたのかな、あの人」
妃はこちらに目をやり、女に視線を戻した。
細道に入り車が横を通り抜けても、後ろを歩く翔麻を振り向かない。
「かもね。若い男には興味あるけど子どもには興味ないんじゃないの」
その視線はうつろで、先ほどとは打って変わって沈んだ声音。
「どうした?」
「どういうワケか知らないけど、またここに来れば翔麻、普通の子どもと同じに過ごせるじゃん。文句言ったら来ないだろうなと思って、我慢した。間違ったかな?」
自分が遭遇した状況のみで憶測するなら、翔麻は日常的に親に放置されている。
図書館に置いてゆく行為は大問題ではあるが、翔麻はここでたくさんの人間に囲まれ楽しく過ごすことができていた。
「さっきのでよかったと思う。ここに来るの、子どもにとって全然悪いことじゃないよな」
「翔麻が心配」
妃のつぶやきは、変わらず浮かない声。
「俺は妃が心配だ」
翔麻への心配はもっともだが、部外者である妃がそこまで気落ちする必要はない気がする。
なぜ、そんな心細そうな目をするのか。
「今日バイトないから、どこか行かないか?」
気晴らしを提案したが、妃は心ここにあらずな様子でうつむいた。
「いや、なんかテンションだだ下がり」
「なら家に送る。いい?」
妃は真を見上げ唇を引き結ぶ。
なにを思っているのかはわからないが、拒否はされなかった。
・・・・・・・・・・
憂鬱なら抱き寄せて話を聞いて、その憂鬱を取り除きたい。
だが妃が拒否するから、一歩引かねばならない。
どうしようもなく、もどかしい。
単車で妃の自宅に着くと、先日と同様リビングに通される。
ソファにかけて妃をまねく。
隣に腰を落としはしたが、愚痴や弱音を吐いたりはしてくれない。
膝に手をつきうなだれるだけ。
「元気ない。どうしたの?」
静かにたずねると思いつめたような表情でこちらに顔を向け、すぐに目を伏せる。
しばらくして、口を開いた。
「不安なんだよ」
そしてまた、黙り込む。
なぜ機嫌が悪いのか教えてほしい、話したくないのなら、聞かない。
心配だがせかすことはせず、待つ。
妃は、語ってくれた。
「俺も子どものころ、いや、今もか。母親仕事でほとんど家にいなくて」
妃の声は他人事のようにそっけない。
思い当たる節があるのだろうとは感じていた。
「翔麻が俺みたいな思いしてたらヤだし、あの母親、すごい腹立つ。俺の母親は仕事ないときは放置とかしてない」
腹を立てながらも感情的にならず、次につなげた妃の冷静さがうらやましい。
「優しいな、妃は」
なさけに実行力がともなう妃は愛しい以前にやはり尊敬に値する。
そばにいさせてほしいと思う。
妃のすぐ横で彼の話に耳をかたむけることができる今に喜びを感じながら、彼の不安をどう取りのぞけばよいか思案していると、妃が先ほどよりやや感情的な声でつぶやいた。
「ごめん違う、俺優しくない。こういう気分にさせられると不安になるから、やめてほしいだけだ」
その言葉は真の中に素直に入ってこなかった。
ひどく他人を心配している時点で、優しい人間であると思う。
「中学入る前まで俺、母親と外国転々としてて」
家族は二人だけなのか、英語が堪能だったのは外国で暮らしていたからなのかと、真は黙ってただ言葉を聞く。
「母親家にいないからヘルパーみたいなの頼んでて、一回最悪なのに当たったんだよ」
妃の口調はふたたびそっけないものになって、最悪という単語の重さも感じない。
「叩いたり蹴ったりすんだけど、親に言ったら親が困るとか言うから、親には黙ってたんだけどさ」
単調だが痛々しいその言葉に、眉をひそめた。
想像がつかず共感することもできず、ひたすら妃が痛ましい。
「親以外の大人がさ、俺の裸見て怪我してるって、……助けてくれたんだよね。そっから先、なんかのきっかけで不安になるし、裸見せると安心する思考回路になるし」
そこまで聞いてようやく、つながった。
妃の憂鬱は翔麻に対してではなく、みずからの心の傷に対するもの。
心から翔麻の状況のみを懸念してはいないから、自分は優しくなどないと言った。
そして。
警告をしたというのに妃が青沼の部屋へ上がったのは欲があったからではなく、なんらかの憂鬱を払拭するため。
「裸でからむの、俺にとっては好きだからすることじゃなくて、不安を解消するために他人を利用してるだけで。でも、真が好きだから」
妃の言葉は続かなかった。
妃は今まさに不安になっており、それを解消したいと思っているのかも知れない。
真を利用して不安を解消することに気が引けて、真に対して好意を示した今、別の他人を利用することもできず、行き詰まっているのだとしたら。
安心させようと強行して抱いては、妃が重きを置いているであろう自分に対する特別な感情を無下に扱うことになりはしないか。
妃の過去がひどく悲しく、また自身も行き詰まりを感じ、真は言葉を失った。
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