7 / 11

第7話

「気を付けて。無理をなさらずに……」  通りの向こう側に彰吾の姿が消えるまで見送ってから潤は急いで診察室に戻った。  もう朝の八時を過ぎている。  ベッドの中で甘い時間を過ごしたお蔭で朝食を食べる暇も無い。とりあえず白衣を羽織り、バタバタと開院準備に掛かる。  診察開始は九時だが八時半には患者がやって来る。準備が間に合うかどうか。内心、ハラハラしながら潤は予約患者のカルテを揃えに掛かった。 「あぁ、眠ってしまいそうです……」  近くの椅子に座り込みたい衝動に駆られながら潤はポツリと呟いた。  彰吾と関係を持つ様になってからというもの生活リズムが崩れっぱなしだ。睡眠時間も満足に確保できていない。体中が重い。まるで疲労という名前の鎧を纏っている様だ。  特殊な力を使って患者を診た後、彰吾の疲労を肩代わりし、更に一晩に何度もセックスを繰り返していれば体が疲れない訳が無い。こんな生活がずっと続くとどうなるだろう。想像するのが怖かった。  潤が準備を整えている所へ真が出勤してきた。今日の真の勤務は午前中が病院での診察、午後は往診となっている。 「……今日は随分遅くまで居たんだな」  恋人の車で出勤してきた真はカルテを揃えている潤の様子を見ながら言った。真は彰吾と潤の関係を知っているし、何度か彰吾の姿を見掛けた事がある。さっきも朝帰りの彰吾と車で擦れ違ったばかりだ。 「えぇ、ちょっと朝寝坊してしまって。すみません。直ぐ、開院の準備をしますから!」  詳しく詮索されるのを恐れる様に潤は答えをはぐらかした。だが、真は真剣な表情で潤に言葉を投げ掛ける。 「……八時半開院だろう? 恋人とはいえ相手の都合も時間も考えないのはどうかと思うぞ」 「え?」 「あの男はお前に相応しくないかもしれないな」  余りに簡単に言ったものだから潤は真の言葉を聞き取れなかった。呆然と立ち尽くして目を瞬く潤に真は解り易い言葉で断言した。 「潤、あの男と別れた方が良い」 「な、何故そんな事を?」  唐突な真の忠告に潤は焦りと驚きで顔色を変えた。 「彰吾さんが貴方に何か失礼な事でもしましたか?」 「直接的ではないが……。私が出勤した時に開院準備ができていなかった事はこれまで一度も無かった。だがここ一週間ずっとこんな調子だ。人の恋愛に口を挟む気は無いが、仕事に支障が出る程生活リズムが崩れる付き合いというのは問題が在ると思う。自分の雇い主が右往左往して不安定になるのを見るのは気持ちの良い事ではない」  真の言葉はチクリと胸に刺さった。  確かにその通りだ。いつ来るのか解らない彰吾を待ち侘び、彼を中心に生活を考える様になってしまっている。仕事も私生活も済し崩し的にリズムを失い始めていた。 「特に最近、顔色が悪い。充分な休息を取っていないだろう? 潤、自分の力の事を考えろ。毎日患者を治療した後、特別に思う男を治し、更に気絶するまでセックスして体が持つと思うか? 今の侭では倒れるのも時間の問題だ」 「っ……そ、そんな事は……」 「大丈夫だと言い切れるか?」 「そ、それは……その……」 「お前には充分な休養が必要だ。力の事は信じ難い話とは言え、恋人をなら理解して貰えるだろう? 訳を話して会う頻度を減らせ。会わないのが辛いならせめてセックスを拒む事だ。お互いの事を本当に想い合っているならできない事じゃないだろう?」  冷静な真の意見に潤は俯いた。常識では有り得ない自分の力の事を話し、お互いの愛を確かめ合う行為を拒む事ができるだろうか。 「…………」 「何故迷う? セックスを拒むと全ての関係が壊れてしまう様な薄っぺらな関係なのか? お前が惚れた男は話もできない様なレベルの低い男か?」  諭す様な真の言葉をじっと聞いていた潤だが、最後の言葉は許せなかった。血が昇ってカッとなった勢いに任せ、唇を戦慄かせて怒りの言葉を返す。 「貴方が彰吾さんの何を知っているというのですか! 失礼にも程があります!」  持っていたカルテを真に投げ付け、潤は二階へ駆け上がった。ピシャリと扉を閉め、体中の震えを抑え様と何度も深呼吸する。 「レベルが低いだなんて……薄っぺらな関係だなんて……そんな事、そんな事は……」  潤は自分の両肩を抱き、何度も彰吾の名を繰り返し呟いた。  力を使って治療すれば「楽になる」「気持ちが良い」「お前が必要だ」と喜び求めてくれる彰吾。  いつも命令口調で潤の体を貪り、場所も時間も構わずにセックスを強いる彰吾。  自己主張できない自分とは違い、逞しく男らしさに満ちた魅力的な彰吾。  夢を語り、夢を追い、夢に向かって突き進む彰吾。  そんな彰吾が愛しく、自分が持つ物全てを捧げても良いと思っていた。 「彰吾さんと別れるなんて……考えられません」  彰吾の声を思い出し、姿を想像しただけで全身が熱くなる。唇の感触を思い出しただけで息が上がる。これが恋だ。今は彰吾の事しか考えられない。毎夜の逢瀬の時間が待ち切れず、その事ばかりを考えてしまう自分は盲目的な恋に落ちている。 「今の侭じゃ……でも、でも彰吾さんは……大丈夫、きっと大丈夫だから」  何かを恐れる様に潤は強く首を左右に振った。頭の片隅に浮かぶ思いを必死に否定しながら潤は彰吾の名を呼び続けた。 「胸が……痛い……」  今の侭では駄目だ。解っているけれど、解らない。無理矢理解らない振りをしている。そう解っているが解りたくない。 「彰吾さん……彰吾さんっ」  恋は真実を曇らせる。  その言葉を必死になって否定しながら潤は長く身を震わせていた。

ともだちにシェアしよう!