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第8話

 夕方――。  全員の診察を終え、待合室に屯していた患者達を病院の外まで見送った時だった。 「先生、この所、ずっと顔色悪いわよ?」 「そうそう。今日なんて目の下にクマが出来ちゃってる」 「睡眠不足? 毎日人の体ばかり診て自分の事が後回しになってるんじゃないの?」  馴染みの患者達に次々と顔を覗き込まれ、潤は僅かに身を退いた。 「そ、そうですか?」 「そうよ。くっきりクマが出来ちゃってるわ。女だったらファンデーションでも消えなくて困っちゃうくらいよ」  ちゃんと休みなさい、と患者に指導された潤は苦笑するしかなかった。医者と患者の立場が逆転だ。  お大事に、と言って皆を見送った後で潤は小さく溜め息を吐いた。 「患者さんにまで言われてしまいましたね」  今の侭では危ない、そう認めざるを得ないかもしれない。苦笑しながら待合室に戻った潤はソファに腰を落とした。その瞬間、強い睡魔に襲われた。朝から何度も欠伸を我慢していたがそろそろ限界だ。一日の診察を終えて緊張の糸が切れた事もあって、潤は薄れる意識をどうする事もできなかった。 (彰吾さんが来るまで……少しだけ……)  ぼんやりとそう思った潤は引き込まれる様に眠りに落ちた。  が、不意に聞こえたパンッという乾いた音に驚いて目を開けた。ガバリと起き上がって周囲を見回す。壁に掛かった時計は午後六時過ぎを指していた。 「え、あ、あの……」  患者を見送ったのは午後四時頃だ。ほんの僅かな時間だけだと思ったが二時間近く眠ってしまったらしい。 「貴方が君津潤ね?」  目の前に一人の女性が立っていた。さっきの音は潤を起こす為に女性が手を叩いた音だった。彼女は腕組をして厳しい目付きで見下ろして来る。睥睨という言葉がピッタリだ。 「院長だなんて良く言えたものね! 毎日年寄りばかり見ている小汚い病院なんて何の価値も無い! 大学病院の先生方とお知り合いでも無いし、それに何と言っても男だなんて! 醜聞極まりないわ!」  耳に障る甲高い声で一気に捲くし立てる女性は見覚えがあった。あの日彰吾と喧嘩していた中年女性だ。そう、彰吾の母親が潤の目の前に立っていた。 「貴女は……」 「私は彰吾の母親よ。貴方は彰吾の才能や夫の会社を潰すおつもり? 貴方を初めて見た時はいつものお遊びかと思ったわ。それなのに彰吾ったら毎日毎日仕事そっちのけで何の役にも立たないこんな所へ遊びに来て! それも目的は男! よりによって男と一緒に朝まで過ごすなんて!」  雑誌に出ても恥ずかしくない社長夫人といった姿で彰吾の母親は潤を責め立てた。姿が美しい分、言葉の棘が鋭くなる。 「いい事? 今後一切、彰吾に近付かないで頂戴! 彰吾はこの街にある支社のリーダーなの。数多のデザイン賞を受賞している今が成功のチャンスなの。あの子の成功で会社を一気に成長させる最大のチャンスなのよ。上場する事だって夢じゃないわ。彰吾にはそれだけの実力があるの。それを貴方みたいな男に壊されるなんて真っ平だわ」 「…………」 「注目を浴びている彰吾が『男と寝る趣味がある』なんて週刊誌にでも書き立てられたらどうなるかご存知? あの子も夫の会社も信用を失ってしまうわ。私の大事な家族が全てを失う事になるのよ!」  投げ付けられる言葉に潤は何も言い返せなかった。全身から音を立てて血の気が引いていく。考えた事もない現実にただ言葉を失うしかなかった。 「もう一度だけ言うわ。今後一切、彰吾に近付かないで! あの子に貴方は必要無いの。整形外科医なら有名な大学病院の先生が何人も居るわ。それに良家のお嬢さんとの縁談もあるの。あの子は幸せな家庭を築いて跡継ぎも作って立派な社長になるの! 彰吾の将来と夫の会社を潰さないでくださる? 貴方も一人の大人なら自分の軽率な行為がどれだけの迷惑と不幸を招くか良くお考えになる事ね!」  辛辣な言葉を投げ付けた彼女はツンッと顎を逸らせて潤に背を向けた。カツカツと甲高いヒールの音を立てて出て行き、駐車場に待たせてあった純白のセダンに乗って去って行く。 「私は……必要無い? 迷惑……不幸?」  彰吾の母親の言葉が頭の中を駆け巡る。その棘は潤の体のいたる所に突き刺さり、身を深く抉った。 「迷惑だなんて……」  否定の言葉を紡ぎかけた唇が止まった。  向けられた言葉を否定できるだろうか。「そんな事はない」と断言できるだろうか。  彰吾の父親は建築会社の社長だ。彰吾はその跡継ぎであり、雑誌でも注目されている建築デザイナーだ。  質の高い生活を望み、良品を求める者達が増え、リフォームが流行っているとはいえ建築は客あってこその商売だ。母親の言う通り「男と寝る趣味がある」という噂が広まるとどうなるだろう。そんな性癖の所為で縁談が破談したとなるとどうなるだろう。 「私が……彰吾さんの全てを壊してしまう」  潤の頭に今朝の真の言葉が甦る。 「あの男と別れた方が良い」  必死に否定した言葉が今、異様な程に強い現実味を帯びて潤に降り掛かっていた。

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