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第9話

 君津整形外科病院が一週間、臨時休業となった。  往診だけは真が続けていたので患者達に大きな負担は掛けなかったが、一人だけ、診察を受けられなくて激怒した者が居た。彰吾だ。 「おい! お前!」  いつもの倍近い患者達を往診した真が病院に戻った時だった。病院名入り往診専用車の運転席側のドア前に彰吾が立ちはだかった。 「……何か用か?」  またか、と胸の中で呟きながら真は言葉を返した。この男が病院へ押しかけて来るのは何度目になるだろう。全くうんざりする。 「潤は何処に居る! 何をしている! 教えろ!」  彰吾は車から降り様とした真の胸倉を掴み、今にも殴り掛からんという勢いで声を荒げた。 「学会に参加中で不在だ」  冷静に言葉を返す真の目の前に彰吾が携帯電話を突き付ける。 「潤から『好きな人ができました。別れて下さい』なんていうふざけたメールが送られて来た。どういう事だ」 「潤がそう言うのならそうなのだろう?」 「そんな訳があるか! こっちから連絡しても一切通じない! 何があったのか教えろ!」  一方的に別れを告げられ、一週間も不通が続いて彰吾の我慢も限界を超えている様だった。必死になる気持ちは解らんでもない。だが真はそうした彰吾の言動が許せなかった。 「何が『ふざけたメール』だ。ふざけているのはお前だろう? 自分の言動に責任も持てないガキが何を言うか」  胸倉を掴まれたまま真は彰吾を睨み上げながら厳しい言葉を続けた。 「男が男に惚れる。男が男を抱く。これが何を意味するか解っているのか? お前は自分の社会的な立場を理解していない。自分を取り巻く環境を把握できていない。自分の言動がどういう結果を招くのか解っていない」 「何だと!」 「その服は誰の金で買った? その靴はどうだ? その時計は? 今日の飯は誰の金で食った? 全て親の金だろう? 会社社長の父親から貰った金で生きているのだろう? 自立もできていないガキが何をほざく」  吐き捨てる様に言った後、真は彰吾の手を振り解いた。そして逆に彰吾の胸倉を掴み上げた。 「夢ばかり吹聴して、口先だけの愛を語って。お前は自分のエゴがどういう結果を招くのか考えた事があるか? 好きだの、惚れただのほざく前に自分の言動に責任を負う事を覚えろ。デカイ口を叩くのは自分のケツを自分で拭ける様になってからにする事だ」  ドンッと彰吾を押し遣り「帰れ」と一喝してから真は病院へ入った。  彰吾の行動は我侭を押し通そうとする子供と何ら変わりはない。都合良く親に寄生し、自立もせず我侭を押し通し続けている。意にそぐわない事は突っ撥ねるだけで他人の理解を得ようという努力をしていない。話し合い、お互いの距離を縮めようといった努力を一切しない。その所為で潤は深く傷付いている。「好きだ」と言っている本人が潤を深く傷付けているとどうして解らないのだろう。 「性質の悪いガキだ。これだからお坊ちゃまは困る」  珍しく不快感を露にした真は往診道具を診察室に置いた後、キッチンに入って夕食の準備に掛かった。ただし、自分が食べる物では無い。 「潤、夕食だ」  料理が苦手だから仕方が無いが、真は買って来た惣菜を皿に並べただけという簡素な夕食を持って潤の部屋に入った。  真っ暗な部屋の中で潤はベッドに力無く横たわっていて身動きひとつしない。もうこんな状況が一週間続いている。 「少しでいいから食べろ」 「……欲しく無くて……」 「無理矢理でもいいから飲み込め。体が弱る一方だぞ」 「……すみません……私……」  潤は真の方を一切見ようとしない。眼鏡を外した顔を枕に伏せ、ただ涙を零すばかりだ。  心の病、こればかりは医師でもどうしようもない。  途方に暮れる真を携帯電話の着信音が呼んだ。ちゃんと食べろ、と言い残し、真は部屋から出た。電話の相手は恋人だ。特別に設定した着信音がそう告げていた。それは潤の胸を締め付ける。 「私の傍にはもう、誰も居ないのに……」  自分ではどうしようもない現実から逃避する様に潤は彰吾と過ごした時間を思い出していた。キスを交わし、抱き合い、自分にしかできない治療を施し、労いと喜びの言葉を貰っていた日々はもう帰ってこない。 「彰吾さん……貴方の夢……貴方の星空はどんなものですか?」  潤は思い出の中の彰吾に語り掛ける。何度も語り掛ければ、自信に満ちた答えが返って来る様に思えた。 「彰吾さん……」  今夜も一人の時間が過ぎて行く。  以前なら隣に彰吾が居た。日付が変わったこの時間には必ずと言って良い程彰吾が居た。それを思うと涙が溢れた。  枕に顔を埋め、愛しい匂いを求めてベッドの上を彷徨う。そんな虚しい行為を繰り返す潤の耳に再び電話の着信音が聞こえた。  潤の携帯電話の電源はとっくに切れている。留守電モードの固定電話が鳴っていた。直ぐに留守録メッセージが流れ始める。機械的なメッセージの後のピーという音に続き、男の声が部屋に響いた。 「潤、俺だ。今、お前は何をしている? 俺は新しい仕事に向けて動き始めた所だ。なぁ、前に話した事があるだろう。小一の時に引っ越した話だ。引っ越しの前の夜、俺は友達と大喧嘩したんだ。『美冬ちゃんに会えなくなって泣いたりすんなよ』ってからかわれたのが原因だった。美冬ってのはあの頃、俺が惚れてたクラスメイトだ。あの日が一緒に遊べる最後の日だったのにな。莫迦な俺は親友と殴る、蹴る、引っ掻くの大喧嘩をやっちまったんだ」  長く聞いていなかった彰吾の声が聞こえて来る。潤はその声に聞き入った。受話器を取り上げる勇気は無い。だが声だけは聞こえる。静かに語る低く渋い声は、恋人を渇望していた潤の心に深く染み入った。 「相手が泣きながら帰った後、ただ、悔しさと虚しさだけが残った。辛くて堪らなかったが意地っ張りだった俺は泣くのを我慢して立ち尽くしていたんだ。そしたら知らない奴がいきなり俺の所に来て『痛いの痛いの飛んでけ』なんて言いながら俺の頬を撫でたんだ。信じられるか? たったそれだけで痛くなくなったんだ。傷の痛みも頭の中のモヤモヤも胸に詰まっていた辛さも全部、一気に消えちまったんだ」  彰吾の笑い声が混じった。潤は起き上がり、じっと電話器を見詰めた。赤いランプが点滅しているそれは長いメッセージを淡々と録音している。 「俺の心と傷を勝手に治した奴が居なくなった後……見上げた空は満天の星空だった。無数の星がちりばめられた空は息を飲む程綺麗だった。その星空の中にひとつの顔が浮かんで消えないんだ。俺を癒した奴、左目の下に三つの泣きボクロがある顔が星空の中で一際美しく輝いていた。お前だ、潤。あの日からずっと俺はお前の虜だ。……今でも潤……」  電話器がピーと鳴った。録音できる最長時間を越えてしまったのだ。一方的に切れてしまった電話はツーツー、と虚しい音を響かせた後、静かになった。 「彰吾さん……」  潤の中でひとつの疑問が解けて行く。  自分の手が彰吾の体を知っていた理由がこれでやっと解った。  まだ幼かった頃、潤は自分の力に何の疑問も持たず、喜んで貰える事がただ嬉しくて誰彼構わず傷を癒していた。もう二十年以上も前の事だ。そんな遠い日が出会いの日だったとは思いもしなかった。そしてそれだけ長い間、彰吾が自分を想い続けていたなんて信じられなかった。  彰吾は潤を探す為にこの街に戻り、潤を思い浮かべる星空を造る夢を抱いている。これ程まで強く想われた事が嘗てあっただろうか。こんな告白を受けた事があるだろうか。 「彰吾さん……私も……私も貴方の事が好きです……今でも……きっと、これからも。もう、決して届かないでしょうけれど……」  呟きが虚しく宙に消えていく。カーテンの隙間から見える星空を見詰めながら潤は声を潜めて泣き続けた。 「……どんなに強く想っていても叶わない恋はある。心の底から憎んでいるのに相手に縛られ、恋に落ちる事もある。想い通りにならないのが恋という物だ。だがそれを乗り越えられたら……きっと……それは愛になるのかもしれない」  ドア越しに電話のメッセージを聞いていた真は自らの経験を語る様に呟いた後、そっと部屋を離れた。  もう潤に掛けてやれる言葉は無い。後は二人と運次第だ。そう思った真はこの夜を境に潤に手を差し伸べる事を止めた。  重なり合えない想いが憎らしい程美しい星空に広がって行く。  恋の甘さと掛け離れた現実の苦さを痛感させる夜はゆっくりと更けていった。

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