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第10話
良く晴れた休診日――。
久し振りに外出した潤は穏やかな笑顔で病院に戻った。
電話で彰吾の声を聞いてからもう一ヶ月になる。あれ以来、一度も姿を見ていないし、声も聞いていない。
辛くて溜まらず、食事も喉を通らない日が続いたが、ようやく冷静になれるようになってきた。
医師でも治せない恋の病は時間が治してくれるというが、それは本当らしい。もう少し経てば「いつまでも引き摺って居られない」と思える様になるかもしれない。
窓から見詰めるばかりで足を踏み入れられなかったカフェのテラスにやっと出向く事ができた潤は久々のティータイムを堪能した。
彰吾の事を思い出すのが怖くて敬遠していた場所に行けた事は小さな自信に繋がった。失恋から復帰する為のハードルをひとつ乗り越えた気分だ。
「そろそろ二時ですね。えぇと、薬剤の配達が……」
何時でしたっけ? と首を傾げながら潤は診察室へ向かった。
明日の準備や真の勤務記録の確認をしながら、不足している薬品や消耗品のチェックも行う。休診日でもやらなければならない事は山積みだ。気になる患者のカルテを見直したりしていると時間はどんどん過ぎて行く。
明日、病院に来る予定の患者と、真が往診する予定の患者のカルテを分けて整理している時だった。
ピンポーンとインターフォンが鳴り響いた。
「はい、君津です」
「お届け物です」
「直ぐ行きます」
カルテから手を離し、印鑑を持ってエントランスに向かった潤は「ご苦労様です」と労いの言葉を口にしながらガラス戸を開けた。
「どちらからの荷物で……ッ! ァァッ!」
荷物の確認をしようとした潤を無視し、突然配達員が中まで踏み込んで来た。驚く潤に荷物を押し付けながら待合室を突っ切り、壁際まで一気に乗り込んで来る。
「な、何を!」
驚いて顔を上げた潤は見えた光景に更に驚いた。
「届け物だ。受け取れ。サインは俺の唇にしろよ?」
届け物は両腕で抱えなければならない程の花束だった。純白のカスミソウの束の中に、深紅のバラがある。ズッシリと重みのある花束の向こう側には想い人が居た。彰吾だ。配達員に扮した彰吾が立っていた。
「しょ、彰吾さん……!」
「さっさとサインしろ。受け取りのサインがないと配達が完了しねぇんだ」
顎を掴まれた。
強引に上を向かされ、唇を奪われる。両手で花束を抱えているお蔭で避ける事ができない。それに後ろは壁だ。身動きひとつ取れないまま、潤は長いキスに溺れた。二人の間で潤の眼鏡が不都合そうに揺れる。
「はっ……ぁぁ……」
「ったく、情けねぇ。変装しねぇとドアを開けて貰えないなんてな」
強かに舌打ちしながら彰吾がぼやいた。突然の出来事に目を白黒させていた潤だが、ハッと我に返って口元を引き締めた。そして花束を押し返しながら首を左右に振る。
「あの、だ、駄目です! 私はその……!」
「これはお前と初めて会った日の星空をイメージした花束だ。俺を虜にしたお前の顔が輝いていたあの夜の星空の花束だ。お前の為の物だ。どうして受け取らない? 何故駄目か説明しろよ」
有無を言わせぬ強い言葉に潤は目を閉じた。
これだけ近くで彰吾の声を聞き、熱を感じ、キスを交わしておきながら突き放す事などできるだろうか。
「…………」
無言のまま潤は暫く考えを巡らせた。自分は一体、何を望んでいるのだろう。この一ヶ月間、何を考え、何に苦しんで来たのだろう。そして何を答えとし、どうしようとしていたのか。
「彰吾さん……」
ゆっくりと目を開けた潤は首を小さく左右に振った。
「私は貴方の事が好きでした。ちょっと強引で、横暴で、我侭で、でも私に無い強さを持つ貴方が本当に好きでした。でも貴方には大切な物が沢山あります。私が貴方の傍に居るとそれら全てを壊してしまいます。会社、御両親、有望な将来……。社会で生きて行くにはどれも大切な物です。私は貴方が好き。貴方を大切にしたい。でも、だからこそ、その花束を受け取る事はできません」
自分でも驚く程スラスラと言う事ができた。現実を見詰める真の言葉と、彰吾の母親の辛辣な言葉、そして長い時間が自分に冷静さを取り戻させてくれた。全てを忘れて夢中になった自分の未熟さを教えてくれた。それを受け止め、反省した事で少し成長できた気がする。そういう意味で彰吾との出会いは良い物だったと思う事ができる。
言い終えた潤はニッコリと笑い、花束から手を離そうとした。しかし彰吾は再びそれをグッと押し付けて来た。
「それはもう過去の事だ。過去の俺だ。それを全て忘れて、今の俺を見て欲しい」
「今の、彰吾さん?」
頷いた彰吾の目は真剣そのもので、潤は真正面から見詰めて来る瞳から目を離せなかった。
「俺は本当に莫迦だった。一人じゃ何もできない癖に、一人前の気分で居た。幾つもデザイン賞を受賞して世間に認められた気になっていた。天狗になっていたんだな。言いたい事だけ言って、好き勝手ばかりして、ずっとお前を傷付けていた」
「そんな事……」
「でも今は違う。俺は俺の実力で生きて見せる。文句を言う奴は実力で黙らせてやる。相手が誰であろうと関係無い。俺の進む道に文句は絶対付けさせない」
一度言葉を切った彰吾は小さく深呼吸してから力強い声で告白した。
「潤、俺に付いて来てくれ。俺が夢を追い駆ける為にはお前が必要だ。今は小さな会社だが、誰もが注目する様な会社にしてみせる。俺の実力で皆の目を向けさせてみせる。俺の隣でそれを手伝ってくれ。俺を癒し、俺の支えになってくれ。俺のものになってくれ、潤」
「小さな会社……実力で会社を育てるって彰吾さん、貴方、お父様の会社を?」
「いいや、親父は関係無い。俺は俺の会社を興した」
「『興した』って貴方、そんな簡単に……」
意外な彰吾の答えに潤は息を飲んだ。
いくら法律が改正されて一円からでも会社を作れる様になったからと言って、起業は容易くできるものでは無い。ましてや父親が会社を持っていて、将来それを継ぐ事ができる立場だというのにわざわざ会社を作る意味と理由がどこにあるというのだろう。
「どうしてそんな無茶を……!」
「俺とお前の間に立つ壁があるなら俺はそれをぶち壊す。例えそれが親だろうと会社だろうと関係無い。俺は夢を追い駆けたい。お前と一緒にな。だから俺は全部振り払った。俺だけの会社を作った。もう邪魔する物は何も無い。世間体も関係無い。俺は自分の力で夢を掴んでやる。だから潤、俺の傍で俺を支えてくれ。その手と笑顔で俺を癒してくれ」
「彰吾さん……」
「色々てこずって遅くなったが……迎えに来たぞ、潤」
潤の目から涙が溢れた。
断る理由など何処にも無い。潤の前にあった壁はいつの間にか、彰吾の手によって粉々に打ち砕かれていた。
自然と潤の足が一歩前に出た。
両手で花束をしっかりと掴み、甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。そうして力強く頷いた。
「はい、彰吾さん……。貴方の想いの詰ったこの花束を……いただきます」
爪先立ちとなり、そっと唇を重ねた。受け取りのサイン完了だ。
見詰め合い、照れ臭そうに笑い合った二人の間に冷静な声が割り込んだ。
「それでいいのか? 潤」
「えっ!」
大慌てで彰吾から視線を外した潤はエントランスに立つ真の姿を見てハッと息を飲んだ。
注文してあった薬剤と、他の病院へ出していた依頼検査の結果を貰って来てくれるよう真に頼んでいた事を今、思い出した。
「あ、あの!」
「貰って来た物は診察室に置いておく。それよりも潤、言っておかないといけない事があるだろう? お前自身の事だ」
真は二人の隣を通り過ぎながら淡々と話す。心の中では彰吾の無謀さに呆れ果てていたがクールな彼は決して表情に出したりしない。真の冷静さを崩せるのは恋人だけだ。
二人の恋の行方を揺さ振る言葉を残して真が診察室に入って行った。その背中を見送った潤は表情を引き締めて彰吾に向き直った。
一番大切な事を忘れていた。
これは絶対に話しておかなければならない。
「どうかしたのか?」
「信じられない話かもしれませんけれど信じてくださいね。真剣な話なんです」
「何だ? 急に改まって」
「あの、私……」
潤は自分の手をキュッと握り締め、一呼吸置いてから言葉を続けた。
「私、人と違うんです」
「違う? あぁ、おっとりしてて人が好過ぎるかもな」
「そうではなくて! この手が……違うんです」
潤は手の平を彰吾の肩に当てた。
意識を集中させると手がカァッと熱くなる。そして相手の体から疲労や痛みを奪い取る力を発揮する。彰吾の肩から凝りや疲労がスゥッと抜けていき、代わりに潤の腕がズシリと重くなる。
「こうやって人に触れる事で相手を治療する事ができるんです。傷口を消したり、撃たれた傷を瞬時に治したり……そんな大それた事はできません。ですがちょっとした擦り傷だったら治す事ができますし、肩凝りや心痛などを和らげる事ができるんです」
いわゆる超能力という物です、と言って潤は彰吾の様子を窺った。
気味悪がられたり、過度に面白がられたりするのが嫌で潤はこれまで殆ど人に話した事が無かった。真は数少ない理解者の一人だ。彰吾も理解してくれると嬉しいがどうだろう。
殆ど変わらない彰吾の瞳をじっと見詰め、潤は言葉を続けた。
「他の人の疲労や痛みを肩代わりするのでとても疲れます。力を使えば使う程体に疲労が溜まり、辛くなってしまいます。でも『気持ち良い』『楽になった』と喜んでくれるのが嬉しくて私はこの力を使って医師を続けているんです」
彰吾の肩から手を離し、手の平を見せた。彰吾の視線が白い潤の手の平に注がれる。
「私は医師です。特別な力を持った医師です。これからも沢山の人を治療する為に力を使って行きたいのです。勿論、貴方の事も大切ですが、私は私の為に貴方の求めに応じられない事があります。その……セ、セックスにも応じられない事があります。後、貴方の治療にも……。それでも貴方は私を必要としてくれますか?」
言い終えた潤には不安もあったが満足感もあった。これでやっと対等な立場になった気がする。横一列に並び、お互いの正直な想いを明かし合えた気がする。本来なら出会った後、深い関係を持つ前に話し合うべき事だ。
彰吾の視線が注がれる。少し怒っている様にも見える、真剣な眼差しだった。
「お前は俺の話をどう聞いたんだ? 俺はお前の癒しの力だけを求めている訳じゃない。お前自身が欲しい。お前の全てが欲しいんだ」
潤は無言で両手を彰吾の背中に回した。胸がいっぱいで今の想いを伝える言葉が思い付かない。
「彰吾さんっ……」
「……潤……会いたかった」
言葉ではなく、キスで二人は想いを確かめ合った。何度も角度を変えてキスを交わすうち、何とも言えないもどかしさが募る。眼鏡が邪魔で思う存分キスを味わう事ができないのだ。
「邪魔だな……」
苛立ちを露にしながら呟いた彰吾が眼鏡を取り上げようとした。しかしピタリとその手が止まる。
「……彰吾さん?」
何を躊躇っているのだろう。潤は彰吾を見上げながら首を傾げた。暫くの間の後、彰吾が軽い咳払いをしてから答えた。
「今すぐお前が欲しい。だが……大丈夫なら眼鏡を外せ。外すか外さないか、それはお前に任せる」
駄目なら我慢する、と呟いた彰吾の顔を見て潤は思わず吹き出した。あれだけ強引に求めてきていた男が潤を気遣って遠慮している。そのギャップが面白くて潤は声を上げて笑った。
「ありがとうございます、彰吾さん……」
耳に心地良い潤の笑い声につられたのか、彰吾も苦笑に近い顔で笑った。柔らかで自然な空気が二人を包む。
「そんなに簡単に倒れたり壊れたりしません。でも、今はキスだけです。あの、アレは明日の準備が整ってから一回だけ許してあげます。その後、一緒に夕食にしましょう。ね?」
潤の提案に彰吾は不満そうに眉を寄せた。
「一回だけか?」
「……た、足りませんか?」
「あぁ。お前も足り無いだろう?」
「っ……、い、いえ、そのっ! そ、それじゃ、もう一回。寝る前に一回、追加します。でもそれだけですよ。それ以上は駄目です」
頬を赤らめながら小声で告げた潤は彰吾の目を見詰めながら眼鏡を外した。三つ並んだ泣きボクロが彰吾の前に露となる。
「解った。今日はそれだけで我慢する」
「休診日の前の晩は、もう少し多くても大丈夫ですから……」
秘め事を告げる様に小声で言った後、潤は自分から唇を求めた。
「おめでとう、だな。潤」
呆れる程に長いキスを交わし、眼鏡を掛け直した潤に真が告げた。
「えぇ。ありがとうございます」
胸を張って頷いた潤の姿は少し大人びた様に見えた。そして隣に並ぶ彰吾も男の魅力を一層増した様に思えた。
初々しいカップルを見た真は「邪魔者は消える」と言い残し、自分の恋人の元へ帰って行った。二人を見ているうちに恋しくなったのかもしれない。
二人きりになってから、二人は神父の前で愛を誓い合う様に見詰め合い、笑顔で想いを確かめ合った。
「夢が叶うまで、俺を支えてくれ」
「えぇ。夢が叶ってからもずっとよろしくお願いします」
口から滑り出た言葉は簡単に宙に散る。だがお互いの心にはいつまでも残るものだ。
見詰め合う二人は永遠の愛を象徴する薔薇の前で星よりも眩い笑顔を作った。
「愛している、潤」
「私もです、彰吾さん」
夢に向かう二人の愛の旅路が今、ここから始まった。
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