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4.※

息を潜めて、耳を澄ます。 聞き間違えかもしれない。 勘違いかもしれない----。 「ぁ...ゆき、と、さっ...ん、ん...」 だが俺の聴覚は勘違いなどしておらず、それは間違いなく人の声だった。 足音を立てないように、慎重に店内を進んだ。声は、俺から見て右手側、テーブル席の方から聞こえてきた。そこなら死角となって、外から覗いても姿は見えない。 顔を覗かせれば状況が見えるところまで来た。俺は意を決して、首をのばした。 テーブル席のソファに、2人の男がいた。 1人はこちらに背中を向けた状態でソファに腰掛けていた。そしてもう1人の男は、その膝に跨るようにして向き合って座っていた。おかげで、その人物の顔はよく見えた。 清春さんだった。 ついさっきまでカウンターで格好よく着こなしていた白ワイシャツは淫らに乱れ、清春さんの綺麗な肌が顕になっていた。色白の筈の肌が、少し紅潮しているように見えた。甘く歪んだ蕩けた顔をして、熱っぽい吐息をこぼし、ソファの男にしがみついていた。 相手は、あの男であることに間違いなかった。 ここにいちゃいけない、と思ったが、俺の足は動かなかった。俺は食い入るように目の前の光景を見ていた。 確かにショックは受けた。 しかし俺は何よりも、清春さんの、恍惚としたその表情から、目が離せなかった。 清春さんが俺に気付いた。 俺は固唾を呑んで、清春さんを見つめた。清春さんは狼狽えることも、動揺することもなく、ただ俺を見据えていた。 「はぁ....」 男が清春さんの首筋に吸い付くと、清春さんは首を仰け反らせながら感じて、熱く息を吐き出した。その間も、決して俺から目をそらすことはなかったし、俺も目を背けたりはしなかった。 浮き出た喉仏。 見下ろすような扇情的な眼差し。 目に見えそうなほどに熱い熱い吐息。 俺は、ごくり、と生唾を飲み込んだ。 それから、清春さんが動いた。 清春さんは男にしがみつくフリをしながら、人差し指を立て、自らの唇にあてがった。 「しー」と、唇が動いたのがわかった。 こんな状況下でありながら、俺は清春さんのその仕草に、興奮させられていた。 「...何考えてる、清春」 男が清春さんの耳元で咎めるようにそう囁いた。俺は身を固め、息を殺した。清春さんは擽ったそうに身を捩ると、俺の目を見ながら男のがっちりした背に腕を回した。 「集中しなさい」 「ん........ごめんなさい、」 それは、男に向けられたものではあったが、俺には、俺に向けられたものであるようにしか思えなかった。 俺から一切目を離さず、しっかりと、その唇で訴えるように紡いだごめんなさいだったからだ。 すると、金縛りがとけたように、足が動いた。 俺は後ずさるようにして、静かにその場を離れた。 「.....ん?誰かいたか?」 離れてすぐ、男の声がして心臓が縮こまった。危なかった。男がこちらに振り向いていたとしたら完全に目が合っていただろう。気配でも感じ取られたのだろうか。冷や汗が流れた。 そんな俺を庇ってくれたのは、清春さんだった。 「いるわけないでしょ。まだ営業時間なのに、誰かさんが無理やりお店CLOSEにさせたんだから。そんなことより......ねぇ、征人(ゆきと)さん、もっとして...?」 征人さん、と呼ばれた男は、その清春さんの煽りで完全にスイッチがオンになったらしい。清春さんの声が高くなったのがその証拠だった。 俺は静かにドアを開け、店を出た。 それまで重いなんて一度も思ったことは無かったドアが、まるで分厚い鉄扉のように、重く、無機質なものに感じた。

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